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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
プロローグ 2 「なぜ visual philosophy か?」
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    04.21.2009 講義レジュメ
    プロローグ 2

    「なぜ visual philosophy か?」




    まずそれを、基本的な3つの問いに分けて考えてみよう。

    A - なぜ、visual philosophy が必要なのか?

    B - まず、visual philosophy とは何か?

    C - そもそも、visual philosophy は存在するのか?可能なのか?




    A - なぜ、visual philosophy が必要なのか?

     私たちは、「視覚の時代」に生きている。視覚の時代は、メディアの時代である。TVや雑誌、広告、そしてインターネットなど、私たちは視覚を中心とした情報に囲まれて生活している。私たちは、さまざまなことを、視覚的な価値に基づいて判断し、行動している。店で商品を買うとき、パソコンを操作して仕事しているとき、TVを見たりや雑誌を読んで余暇を過ごしているとき、あるいは人間関係や恋愛のときでさえも。

     つまり見ることは、今日、私たちが生きることの大きな部分を占めている。

     ところで、哲学とは何か。簡単に言えば、生きることの意味や、有意義に生きる方法を追求するのが、哲学である。これは動物の中で、人間にだけできることである。人間は他の動物と違って、自分と世界との関係を考えながら、生きることができる。つまり哲学は、人間が人間らしくあるための、基本的なことなのだ。人間はつねに、生きることの意味を考えながら生きるから、人間なのである。哲学のない人生は、意味のない、空しいものであると言えるだろう。逆に言えば、哲学があれば、たとえ人生は空しいという結論に至ったとしても、その人生は、その意味が分かっただけ空しくはないと言うことができる。

     だが私たちは、現代社会の中で、ほとんど見ることによって生きているにもかかわらず、見ることの意味を考えたり、有意義に見ることを追究する哲学を、ほとんど持っていないのではないだろうか?私たちは日々、ただ空しく、そしてその空しさを知ることもなく、見ているばかりなのではないだろうか?

     実際、私たちに与えられる視覚的な情報は、そのほとんどが、むしろ空しく見るため、見ることの意味を失わせるためのものなのではないか?私たちは、見れば見るほど、見ることの意味を失うような経験をしているのではないだろうか?私たちのまわりには、私たちの感性や思考を鈍らせ、記憶を失わせ、行動を単純化するような、「消しゴムとしての映像」があふれている。つまり、「感じないため、考えないため、忘れるための映像」である。

     だが見ることは、本来そのようなものだろうか?私たちは映像を、むしろ、感じるため、考えるため、思い出すため、そしてさまざまに試行錯誤したり、行動したりするために、用いることができるのではないだろうか?そして見ることの意味を追求し、より深く世界を見るため、新しい世界を見つけるための映像というものが、あるべきではないだろうか?そのような「鉛筆としての映像」が、必要なのではないだろうか?



    B - まず、visual philosophy とは何か?

     では、visual philosophy ―見ることの哲学、見ることの思想ーとは何だろうか?

     今まで歴史の中で、哲学は主に、言葉によって、特に書物によって担われてきた。哲学は「読まれる」ものであり、そのためには特別な教養が必要とされてきた。だが哲学は、本来は人間にとって基本的なことである。哲学は、あらゆる人にとって必要であり、またすべての人に開かれているべきものなのではないか?

     一方、映像は、誰でもが見て、感じて、反応できるものである。どんなに「難しい」映像でも、少なくともその映像の「難しさ」を、視覚的に見て、それに反応することは誰にでも可能だ。映像は言葉のように壁がなく、万人に向けて開かれているものである。したがってそれは「言葉を超えて」、何かを伝えることができる。

     visual philosophy は、万人に開かれた映像の体験を、従来の「哲学的な言葉」の中に閉じ込めることではない。そのようなものは単に、従来の哲学を映像に「当てはめた」だけのものに過ぎない。

     visual philosophy は、そうではなくて、万人に開かれた映像による、新しい哲学を始めることである。



    C - そもそも、visual philosophy は存在するのか?可能なのか?

     私たちは、visual philosophy を新しく始めるのである。それは新しい試みである。

     visual philosophy は、まず二つの考え方が基本になっている。一つ目は、「この世界は映像である」という考え方である。この言葉は、私たちが生活することの大きな部分が、見ることで占められているということの、別の言い方である。だが同時にこの言葉は、私たちが、「メディアと情報の時代」として、見ることがとりわけ中心を占めた時代に生きているということを表してもいる。現代において生きることは、情報としての映像と関わることと切り離すことができない。そして私たちは、世界との関係を、主に映像によって結んでいるのではないだろうか。

     visual philosophy はこのように、「世界は映像である」という考え方を背景にしている。そしてこの背景の上に、二つ目の考え方が現れてくる。それは「見ることは考えることである」ということである。それは、誰もが無意識的に、自然におこなっている「見ること」を、新しい「考えること」としてとらえようとする言葉である。

     だが「見ること」を、新しい「考えること」にするためには、今までのような見ること、つまり「感じないため、考えないため、忘れるための見ること」のままではダメである。万人に開かれた「映像による哲学」は、「感じるため、考えるため、行動するための見ること」として、新しく作り出されていかなければならない

     だがそれはただ闇雲に新しく試みれば良い、というわけにはいかない。私たちは、現代の忙しい生活の中で、簡単な答えを求めてばかりいる。しかもそのような簡単な答えならば、社会やメディアが次々と与えてくれる。だがそのような簡単な答えは、むしろ考えることを鈍らせてしまう。そして表層ばかりを見て、深く見ることを遠ざけてしまうのだ。

      visual philosophy は、「世界は映像である」と「見ることは考えることである」という二つの考え方を基本にして、まず「深く見るために立ち止まること」から始められるだろう。立ち止まって、表層の向こうにあるものを見ること。それは、派手でわかりやすく簡単な答えを与えてはくれないかもしれないが、今まで見えていなかったものへの小さな気付きを与えてくれるだろう。visual philosophy は、その小さな気付きを積み重ねて行くことから始めなければならない。

     また、新しく visual philosophy を始めるためには、その導きとなる過去の哲学や、芸術や、映像が必要となる。そのような導きの糸は、決して多くはないが、幸いなことにいくつかは存在している。それと向き合うことは、決して易しくはないかもしれないが、じっくり取り組めば、きっと何かを教えてくれるだろう。そういった導きの糸の助けを借りながら、試行錯誤しつつ、visual philosophy は始められる。

     この世界をより深く、新しく見つけるために。
    | resume | 04:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    プロローグ 1 「映像について考えるために」
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      04.14.2009 講義レジュメ
      プロローグ 1

      「映像について考えるために」



      まずそれを、4つに分けて考えてみよう。

      A - 映像について考える―どのようにして?二つの道「video art」と「visual philosophy」

      B - 「video art」 - 「新しい、電子映像の、アート」を通して

      C - 「video art」 - 「見ることで知ること」を通して

      D - 「video art」と「visual philosophy」、「見ること」と「知ること」、芸術と哲学の重なり合いを通して




      A - 映像について考える―どのようにして?二つの道「video art」と「visual philosophy」

       私たちはこれから、「映像」について考えていきたい。それは、どのようにしてだろうか?

       まず、「映像について」と言っても、さまざまな映像がある。映画やTVなどのエンターテインメント、TVや街中で流れるコマーシャル映像、ドキュメンタリーの映画やTV番組、音楽などのプロモーション・ヴィデオ、コンピューター・グラフィックスやゲームの映像、美術館やギャラリーで目にする「アート作品」としての映像、「映像芸術家」が作る実験的な映像作品、家庭のヴィデオで撮られた子供の運動会などの私的な記録映像、YouTubeなどによく見られる、日常のちょっとした瞬間をとらえた短いクリップや個人的な制作による趣味の映像などなど、数え上げるときりがないだろう。

       次に、「考える」と言っても、さまざまなアプローチがある。映像についてのアプローチには、技術の面から、経済の面から、政治の面から、社会学から、人類学から、認知科学から、現場制作の側から、歴史の面から、美学の面からなどなど、いろいろなものがある。

       私たちは、ここで映像について考えるために、二つの道を通って行くことにしたい。その一つは、「video art」という映像のジャンルである。もう一つは、「visual philosophy」という考え方である。



      B - 「video art」 - 「新しい、電子映像の、アート」を通して

       では、なぜ映像について考えるために、「video art」と「visual philosophy」という二つの道を選ぶのだろうか?

       まず「video art」とは何か?詳しい説明は後日に譲るとして、簡単に言えば「映像の芸術」である。ただし一般的には、電子映像を使った独特のアート作品を「ヴィデオ・アート」と呼ぶ。それは60年代に生まれたアートの新しいジャンルであり、あまり世間一般には馴染みのない映像の種類である。

       では、なぜ一般にあまり知られていないジャンルの映像なのにもかかわらず、「ヴィデオ・アート」をテーマに選ぶのか?それにはいくつか理由がある。

       第一の理由。それは新しいアートこそが、従来のものにとらわれることなく、新しいものの見方や考え方を切りひらいていく可能性に満ちているからである。ヴィデオ・アートは、いまだジャンルとして確立されてはいない。だからこそ、すべてを私たち自身で新しく作り上げて行かなければならない。作品制作のための環境、上映・展示のための機会、批評のためのメディア、美学や研究のためのアカデミックな場所、観客や後進のための教育・啓蒙の場所、商品として売り買いされるためのマーケット、保存のためのアーカイヴ、などなど。それは現代の映像シーンのいちばん先端に位置して、敏感に世の中の動きを感じ取りながら、日々新しく映像を作り出して行く現場である。そのようなところからこそ、映像について考えるための道が開けてくるのではないだろうか。

       第二の理由。それは、ヴィデオ・アートが、私たちが生きる現代の情報メディア社会の中心的な道具である「電子映像」を使ったアートだからである。私たちは今日、大量の映像に囲まれて生活している。そのような映像に満ちた社会を作り上げたのは、TVや広告、インターネットなどに代表される、電子の映像メディアである。そしてヴィデオ・アートは、そのような情報メディア社会と同じ道具を使って、その内側からそれと取り組もうとするアートである。それはいまだ小さな動きしかできていないかもしれないが、やがてはこの社会の中心的なアートとしての役割を担う大きな可能性を持っているではないだろうか。

       第三の理由。それは「video art」という言葉が、単なる現実的な一ジャンルとしての「ヴィデオ・アート」という意味を超えて、「深い響き」を持っているからである。それについて、次に考えてみよう。



      C - 「video art」 - 「見ることで知ること」を通して

       一般的に「video」とは、ビデオカメラやビデオディスクなどのように、電子メディアによる映像のことを指している。だが、そのラテン語の語源的な意味は、「私は見る」ということである。

       「video =私は見る」。この言葉は「見る」ということの本質を言い当てているのではないだろうか。なぜなら人間だけが、「私は見る」と言えるからである。「私は見る」と言うときには、そこに「見る私」がいる。「私」としての意識を持ちながら、「見る」ということ。つまり「見る」自己の意識を持ちながら、「見られる」他を認識するということ。自己と他者の関係について意識し、考えるということ。これは人間が人間であるための、もっとも基本的なことなのではないだろうか。

       「見る」ということは、このように私たちにとって、根本的なことなのである。「video =私は見る」という言葉は、その根本的なことを的確に表しているように思われないだろうか。人間は「見ること」とともに誕生し、「見ること」とともに発展してきた。そして現在、私たちは電子の情報メディアによる、新しい「映像の時代」に生きている。そして電子メディアの映像は、今ふたたび「video」と呼ばれている。これは偶然なのだろうか?

       次に「art」とは、語源としてはラテン語の「ars(アルス)」から来ており、それは古代ギリシャ語の「technê(テクネー)」の訳である。この「technê」は、「technique」や「technology」の語源でもあり、「芸術」とともに「技術」「作法」「手仕事」などを一緒に指す言葉だった。

       ここで、この「technê」について、マルティン・ハイデッガーが言っていることを引用して見てみよう。
       「テクネーという言葉は、むしろ知ることの一つのさまである。知るというのは、本質的にあるものを、本質的にあるものとして、隠れたところから、それが見えるあからさまなところへと連れ出すことである。テクネーは決して作りものをする技術のことではない。」(マルティン・ハイデッガー『芸術作品のはじまり』p.79-80、菊池栄一訳、理想社、1969年(リンクは同書異訳))

       つまり、「art」の本来の意味は、「本質を見えるようにすることで、知ること」なのだ。したがって「video art」とは、いちばん根本的な意味にさかのぼって考えるなら、「見ることで知ること」だと言うことができるだろう。



      D - 「video art」と「visual philosophy」、「見ること」と「知ること」、芸術と哲学の重なり合いを通して

       しかし「見ること」と「知ること」は、重なり合うものなのだろうか?かたや「見ること」は、感性の働きであり、かたや「知ること」は、知性の働きなのではないか?そして感性は、芸術が追求するものであり、知性は、哲学が追求するものである。芸術と哲学は、現在では、それぞれ独立した異なるジャンルである。そしてそれは、むしろ反対のものであるように見える。

       だが芸術と哲学の二つは、本当に別々のもの、反対のものなのだろうか?

       私たちはたとえば古代の彫刻、ギリシャ彫刻や仏像、縄文土器などを見て、古代人が考えたことを何か知ることができる。ならば芸術も本来は、哲学なのではないか?あるいは逆に、私たちはたとえば古代の思想の本、プラトンや仏典、論語などを読んで、文芸作品としての美しさや面白さを感じることができる。ならば哲学もまた本来は、芸術なのではないか?つまり、芸術と哲学は本来、同じものなのではないだろうか?芸術と哲学はどちらも、自分と他者との関わり、自分と世界との関わりを知ろうとすること、そしてそれを伝えようとすることという、人間の基本的な営みとして、一つのことなのではないだろうか。そしてその営みに、異なる側面からの光を当てるときに、あるときは芸術として映り、あるときは哲学として映るのではないだろうか。

       映像について考えるためのもう一つの道、「visual philosophy」は、簡単には「映像の哲学」という意味だ。ここで「哲学」を意味する「philosophy」の語源は、古代ギリシャ語の「philosophia」である。それは「philo =愛する + sophia =知」の組み合わせで、「知を愛し求める」ことである。つまり「visual philosophy」もまた、「見ることで知ること」を追求することである。だから、「video art」と「visual philosophy」は、その深いところで重なり合うのである。

       今まで、「見ること」は感性=芸術の主題、と「知ること」は知性=哲学の主題とされてきた。私たちはそうではなく、「見ることで知ること」という主題にしたがって、芸術と哲学を一つにすることを考えたい。そしてこの芸術=哲学という視点からは、「video art」と「visual philosophy」という道は、同じところへと通じる道なのである。

       このように「見ることで知ること」は、「メディアと情報の社会」「映像の時代」に生きている私たちに、もっとも必要とされることではないだろうか。だが私たちは、そのような芸術=哲学を、いまだほとんど持っていないのではないか。したがって今日、映像について考えるためには、従来の見方や考え方に頼るのではなく、新しいアプローチを自分たちで切りひらき、作り出していくことが必要になるだろう。そして「video art」という新しい映像ジャンルと、「visual philosophy」という新しい考え方が、そのための道となっていくだろう。



      参考文献:マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』関口浩訳、平凡社ライブラリー、2008年、同『芸術作品のはじまり』菊池栄一訳、理想社、1969年、同『杣径』所収「芸術作品の起源」茅野良男、ハンス・ブロッカルト訳、創文社、1988年
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