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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
レッスン 5 「シュルレアリスム―生の根源へ」
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    06.30.2009 講義レジュメ
    レッスン 5

    「シュルレアリスム―生の根源へ」



    A - シュルレアリスムという方法

    B - ブニュエル、非娯楽的な映像

    C - 無意識―映像による因習・道徳の破壊

    D - ヴィゴ、もう一つの詩的な抵抗



    A - シュルレアリスムという方法


     前回、私たちは映像によって思考するということの、過去の偉大な実践の例として、エイゼンシュテインによるモンタージュというテーマについて考えた。ただしここで注意したいのは、エイゼンシュテインのモンタージュが私たちに開いてくれる問いは、単に映画の初期、過去の映像についての「古くさい」ものとしてとらえてはならないということだろう。それどころか、80年以上立ってもなお、その問いはまだほとんど真剣に考えられてもいないと言えるかもしれない。それは、映画も理論も映画史の「古典」ではあるが、古典というものが本質的にはいつもそうであるように、現代からの光を当てることによって、汲み尽くすことのできない新しい問いを、常に私たちに問いかけてくる。だから私たちはエイゼンシュテインのモンタージュに対して、現在の私たち自身への問題提起として、「いま・ここ」において、直接に向き合わなければならないだろう。

     これから私たちが見る「シュルレアリスム」というテーマも、やはり芸術史、映画史上の出来事の一つではある。だが、それを私たちは単に過去の歴史として学ぼうとするのではない。その映像は確かに私たちが体験してきた映像の、一つの起源である。そしてその起源と真摯に向き合おうとするならば、私たちはそこに映像という創造の、驚くべき一つの本質を見出すことになるだろう。そのような創造性は、映像が見かけ上は発達している現代では、むしろすり切れて、見えにくくなってしまっているのではないだろうか。だが、それがまさに誕生した瞬間に立ち返ることで、私たちは映像の持つ、深い衝撃、その感覚的な思想を、いっそう明快に見ることができるだろう。

     1920年代ヨーロッパに起こった文学・芸術運動であるシュルレアリスムは、さまざまな形で映画に関心を抱き、また直接的にいくつかの実験的な映画作品を生み出した。そしてそのようないわゆる「シュルレアリスム映画」ではなくても、その美学はさまざまな映像に、それが芸術であれ、あるいは商業的なものであれ、多大な影響を及ぼしている。その影響はあまりにも浸透しているため、現在では、ほとんど意識されなくなってしまっているほどであると言えるかもしれない。
     まず、基本的な概念の紹介をしておこう。シュルレアリスムとは何か。運動をリードしたフランスの詩人、アンドレ・ブルトンによれば、以下である。

     「心の純粋な自動現象であって、それによって人が、口で述べようと筆記によろうと、また他のどんな方法によるとを問わず、思考の真の働きを表現しうるものである。それはまた、理性によるいかなる監督をも受けず、審美的な、あるいは倫理的な心づかいをまったく離れておこなわれる思考の口述でもある。」

     「シュールレアリスムは、これまで顧みられなかったある種の連想形式の、すぐれた実在に対する信頼に根拠を置き、また夢の全能と、思考の非打算的な活動に対する信頼に根拠を置くものである。シュールレアリスムはまた、他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破壊し、それに代わって、人生の諸問題を解決することを目的とするのである。」(「シュルレアリスム宣言」(1924)『世界の詩論』p.277)

     つまり簡単に言うならば、夢、狂気、無意識といった人間の精神の領域を表現することを目指し、従来の日常や因習、制度にとらわれた現実感覚を超えて、「超現実」を見出すという芸術の方法論である。ここから、夢、狂気、無意識的なヴィジョンを探求するものとしての映画、というアプローチが生まれた。そしてそのために、詩における「自動筆記」にならった、自由な連想によるイメージの構築や、夢に依拠した日常的な物語の解体、幻想的なイメージの演出などが、映画において試みられた。



    B - ブニュエル、非娯楽的な映像

     2人のスペイン人芸術家、ルイス・ブニュエルとサルヴァドール・ダリによる『アンダルシアの犬』(1929)や『黄金時代』(1930)は、そのシュルレアリスム的な感性と思想が、映像による実践として、もっとも直接的、明快に表現され、もっともその挑発的な効果を発揮した映像作品ということができるだろう。その後ダリは映像から離れていくが、ブニュエルはシュルレアリスムの精神・美学を体現した、もっとも重要な映画作家として、その後も50年以上にわたって創作活動をおこなっていくことになる。


    上映:『アンダルシアの犬』ブニュエル & ダリ(映画、フランス、1929年)




    ブニュエル




    ダリ




     有名な、衝撃的ファーストシーンから始まるこの映画について、ギリシア出身の映画理論家アド・キルーは次のように言っている。

     「最初のシークエンスから、この映画の根源的にスキャンダラスな意味を強調することが大切だった。この映画は、あらゆる規範に反して、一般観客がおのれのヴィジョンに耐えられないように演出されている、映画史上最初の映画なのである。『アンダルシアの犬』は、非娯楽的な最初の映画だ」(『映画とシュルレアリスム』p.316)

     この映画の初上映時、予期しなかった好評を批判して、ブニュエルは言う。

     「(この作品は)結局のところ、犯罪への絶望的な、熱烈な呼びかけに過ぎない」(「アンダルシアの犬:脚本」(1929)『ルイス・ブニュエル著作集成』p.230)




    C - 無意識―映像による因習・道徳の破壊


     次にブニュエルの言葉によりながら、シュルレアリスムの映像的な感性と思考をめぐって、見ていくことにしよう。

     「映画は、それを扱う者が自由な精神であると、すばらしいが危険な武器になる。それは夢、感情、本能の世界を表現するための、最高の道具なのである。映画の映像の産出メカニズムは、夢の状態にある脳の機能をもっともよく模倣する・・・映像は、夢の中と同じように、ディゾルブやフェードインを通じて、現れたり消えたりする。時間と空間は融通性を持ち、意のままに収縮し、拡張する。時間の順序や相対的な継続時間は、もはや現実に対応することはない・・・映画とは、意識下の生を表現するために、自らを発明したように思える。この生はごく深く、その根元からポエジーに入り込むのだ。」(「ポエジーの道具としての映画」(1958)『著作集成』p.196-197)

     「私は夢の要素の一部を引き寄せたとは言え、この映画(『アンダルシアの犬』)はリアリズムのそれである。他の映画との基本的な違いは、衝動によって行動を起こす登場人物たちの役割であり、それはポエジーの源である不合理なものの根源と混ざりあう・・・映画は人間の無意識の感覚に向かっており、だから普遍的な価値を持つ」(「ルイス・ブニュエル自叙伝」(1938)『著作集成』p.339)

     「観客に具体的な人物や事物を提示することで、かれらに直接的に働きかけることによって、そして沈黙、暗闇を使って、その心的な生活環境と呼ばれるものから引き離すことによって、映画は他のいかなる人間表現とも異なる仕方で、かれらをとりこにする力がある。しかし、映画にはまた他のどれとも異なり、かれらを麻痺させる力もある。不幸なことに、現在の映画の大部分はそのような使命しか持たないように見える。スクリーンは、映画がその中でころげ回る道徳的な空虚を陳列している」(「ポエジーの道具としての映画」『著作集成』p.194)

     つまり、シュルレアリスムの映像の方法論は、単に「道徳的」な物語を「空虚」に物語ることでもなく、「心地よい作り話」の中に溺れることでもない。そのような映像は「観る者を麻痺させる」。そうではなくて、私たちが普段はそれに対して心あるいは肉体の眼を閉ざしているような、人間の精神の奥底に潜む、狂気じみたもの、残酷なもの、おぞましいもの、不条理なものなどを、「理性によるいかなる監督をも受けず、審美的な、あるいは倫理的な心づかいをまったく離れて」あらわにすることなのである。それは、新しい現実として、つまり「超現実」として明るみに出されるのだ。

     そしてそれは、こちらが善(美)で、こちらが悪(醜)・・・といった、単純な善悪(美醜)の問題の偽善を暴き、私たちの生ぬるい倫理的、美学的な判断を不能に陥らせるようなものである。そのような衝撃を与えることで、映像は私たちにすべてをもう一度感じ、考え直すことを求めるのだ。眼を背けたくなる悪夢のような映像に、私たちが惹かれてしまうのはなぜだろうか。たとえ意識でそれを抑制しても、夢に見たり、そのような映像が無意識をとらえて離さないのはなぜだろうか。それはそのようなヴィジョンこそが、実は私たちが日常では気付かない、見ようとしない「現実」でもあるからではないだろうか。そしてむしろ、情報や映像を日々与えられている、この緩んだ日常の方が、むしろ空しい盲目的な夢のような状態なのではないだろうか。

     このような映像と向き合うとき、私たちは、自分の道徳的・審美的な感覚を構成している、さまざまな社会的なアイデンティティやイデオロギー(民族、年齢、ジェンダー、貧富、教養、信仰など)を離れて、無意識の感覚に突き戻される。その瞬間、善悪や美醜を判断するための、あらゆるアイデンティティやイデオロギーのしがらみが吹き飛ばされてしまう。そして一人の人間として、その映像を見、感じなければならない。このような従来の感覚を破壊して、純粋な一人の人間としての感覚を、ふたたび新しく回復させること。そして人間の生の「深い根源にあるポエジー」を明るみに出すこと。このような感覚の解放が、ブニュエルが目指していたことなのではないだろうか。そしてここにブニュエルの、単なる「悪意」ではない、非常に熾烈な visual philosophy の闘いの仕方を見ることができるのではないだろうか。



    D - ヴィゴ、もう一つの詩的な抵抗

     次に私たちは、ブニュエルを離れて、シュルレアリスムの影響が生み出した、もう一つの映像を見ることにしたい。夭折した伝説的な映画作家ヴィゴの映画には、やはり少年期や夢の姿を借りて、因習的な現実に対する美しい抵抗のイメージが描かれている。


    上映:『操行ゼロ』ジャン・ヴィゴ(映画、フランス、1932年)



    ヴィゴ




     「『操行ゼロ』は、子供たちの詩的反抗が表現されている唯一の映画である。映画がわれわれの制度を罵倒しているというので検閲が乗り出し、現代の蒙昧さのうちにあってすばらしい光を放つ『操行ゼロ』は上映禁止となった」(『映画とシュルレアリスム』p.249)

     ヴィゴの映画は、ブニュエルと同じく、やはりその「感性による抵抗」のために危険視されたのだろうか。ここに、ヴィゴによるブニュエルへの、同志的なまなざしを紹介しておこう。

     「私たちがスクリーンの上の剃刀で真二つに切り裂かれる女の眼の映像に耐えきれないとすれば、地上のだらけた人間たちが犯したさまざまの怪物性を私たちに受け入れさせる私たちの無気力こそが、重大な試練にさらされているのである。それは、この映画では言うなれば習慣の眼とは別の、もう一つの眼で見ることが必要であることを確信させる」(ジャン・ヴィゴ「もう一つの眼で見る」(1930)『ブニュエル』p.221)

     現代、安易な「シュール」な映像は、単なるエンターテインメントの一部として、私たちのまわりに氾濫している。それは皮肉にも、「私たちの無気力」を増長させるために、つまりものを「感じない、考えない」ために使われているように思われる。では、映像のシュルレアリスムの方法論が持っていた、生の根源にまで降り立って、感性によって思考させる力は、すでに失われてしまったのだろうか?

     最後に、ブニュエル最晩年の、私たちへの警告。

     「この世界は破滅している。それは人口爆発、テクノロジー、科学、情報によって破壊されるだろう・・・情報の過剰は現代人の良心へ、重大な悪影響を及ぼす。法王が死ぬと、国家元首が暗殺されると、テレビがそこにいる。人間がいたるところに現れて、一体何の役に立つというのか?今日の人間は中世にはできたように、自分自身と向き合うことがまったくない・・・最悪のことが起きてわれわれは遂に根こそぎにされるだろう。『アンダルシアの犬』以降、世界は不条理の方へ進んでしまったからである。変わっていないのは私だけである」(「ペシミズム」(1980)『著作集成』p.353-354)



    参考文献:
    『ルイス・ブニュエル著作集成』(杉浦勉訳、思潮社、2006年)
    アド・キルー『映画とシュルレアリスム』(飯島耕一訳、美術出版社、1968年)
    アド・キルー『ブニュエル』(種村季弘訳、三一書房、1970年)
    『世界の詩論』(「ユリイカ臨時増刊」、青土社、1979年)
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    レッスン 4 「エイゼンシュテインのモンタージュ」
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      06.16.2009 講義レジュメ
      レッスン 4

      「エイゼンシュテインのモンタージュ」



      A - visual philosophy としてのモンタージュ

      B - アトラクションのモンタージュ:すべては葛藤・衝突である

      C - オーヴァートーン・モンタージュ:映像を感じる

      D - 知的映画:映像による思想/思想による映像



      A - visual philosophy としてのモンタージュ


       私たちは前三回、三人の思想家をピックアップして、それぞれ映像に関連する思想的なテーマを一つずつ中心にして、映像について考えることをおこなった。そのテーマはいずれも、このメディア社会の映像について考えるために、まずもっとも基本的な視野を与えてくれるものである。また、そのテーマに沿ったいくつかの映像作品を見て、具体的に考えるための導きの糸とした。こうして、「visual philosophy =映像によって考える」ための、一番基本的なウォーミング・アップはできたのではないだろうか。

       ところでこれまでは、どちらかと言えば思想的なテキストを中心にして考え、その都度参考として映像を見てきたのだが、そこで大事なことは、映像を単に思想の翻訳と見たり、逆に思想を単に映像の解釈と考えたりしてはならないということだろう。ここでもう一度確認しておきたいのだが、私たちの試みのコンセプトである visual philosophy は、映像そのものを新しい哲学として考え、作り出そうとすることである。したがって、思想的なテキストを助けとしながらも、そこで浮かび上がってきたテーマや問題を、映像として感じることで、自らの感性による体験としてとらえ、考えていくということを志したい。

       今回は、映画の歴史において、もっとも重要な芸術家の一人であり、また同時に映像の思想の歴史においても、もっとも重要な思想家の一人である、セルゲイ・エイゼンシュテインをめぐって考えていくことにしよう。エイゼンシュテインにおいて中心となるテーゼは、「モンタージュ」である。モンタージュは、エイゼンシュテインにあっては、映像=芸術の方法論であると同時に、思想的な概念でもあり、また広くは社会全体を考え、改革し、創造するための原理でもあるような広がりを持つ言葉である。エイゼンシュテインは、一人の人物の中で、映像芸術の実践と思想の営みが完全に一つのものとして展開されている、貴重な例である。彼こそは、映像の歴史において、「映像による思想」を探求した、もっとも偉大な先達ということができるだろう。

       ここで私たちが目指したいものは、visual philosophy としてモンタージュをとらえていくということである。したがってそれは、単なる映像制作の技術的な方法論としてのモンタージュを見ることではない。むしろ、モンタージュというテーゼが、単なる映像表現の問題を超えて開いていく、社会や文化全体への問いの広がり、深みを見て取ることが、今回のテーマである。


      エイゼンシュテイン





      B - アトラクションのモンタージュ:すべては葛藤・衝突である

       まず、一般的に言われるモンタージュとは何だろうか。

       「(1)単にフィルムの編集を指す。(2)美学的、思想的、イデオロギー的意味合いを強めたフィルムの結合。エイゼンシュテインをはじめ、1920年代のソヴィエトで盛んに議論された。(3)”ダイナミック・カッティング”のこと。高度に様式化された編集の型。しばしば短期間に多くの情報を伝えるために用いられる」(J・モナコ『映画の教科書』)

      つまり、もっとも一般的な(1)や(3)の捉え方では、単に映像を編集段階で組み合わせて、(多くの場合物語)映画を作り出すための技術を指すに過ぎない。エイゼンシュテインは(2)にあるように、単に表層的な意味でモンタージュを考えることはなかった。私たちはここで(2)について考えるわけだが、エイゼンシュテインがどのようにモンタージュという言葉に深みと広がりを与えていたかを、見ることにしよう。

       彼はもっとも初期に書かれた論考の中で、モンタージュの本質について「アトラクションのモンタージュ」という考えを示している。

       「アトラクションとは、演劇のすべての攻撃的要素のことである。つまり感覚的・心理的作用を観客に与える演劇のすべての要素のことで、それらは情緒的ショックに向けて、経験的に調整され、数学的に計算される。そうすることで、知覚する側にはその総計を通じて、提示されたものの思想的側面、効果としてのイデオロギー的な帰結を感得することができるようになる」(「アトラクションのモンタージュ」(1923年)、『セルゲイ・エイゼンシュテイン全集6 』p.14)

       これは、エイゼンシュテイン自身の演出による演劇のために書かれた論文からの文章である。すでに彼の映像に対する感覚的な把握の深さを示しており、また演劇や映画にとどまらないその問題提起の射程の広さを知ることができる。つまりここでは、感覚的・心理的な作用を観客に与えるものが「アトラクション」と呼ばれ、さらにはその構成が結果として「思想」を観客の内面に生む、とされている。それをエイゼンシュテインは「攻撃的」と呼んでいるが、それについて彼はさらに、次のように発展させていく。

       「モンタージュ、その胚種であるワン・ショットの画面は、何によって特徴づけられるだろうか?衝突によって。二つの独立する断片の葛藤によって。二つの与えられたものの衝突から思想が発生する・・・ワンショットの画面内における葛藤は、潜在的なモンタージュであって、緊張が増大すると、その結果として長方形の細胞を打ち砕き、その葛藤がモンタージュ断片を相互にモンタージュする衝動となって噴出する」(「ワン・ショットの画面の外で」(1929年)『全集』p.69-70」)

       
      つまり、「アトラクション」と呼ばれた映像の各要素は、そのすべてが多様な感覚的・心理的な力とベクトルを持っており、それらが同一画面上でもぶつかり合い、また映像の時間的な流れや構成の中でもぶつかり合っていく。すべてはぶつかり合い=葛藤・衝突なのであり、それが表面には現れていない「思想」を生み出すのである。エイゼンシュテインはこのように、映画のすべての事象を、モンタージュ=葛藤という視点からとらえていく。



      C - オーヴァートーン・モンタージュ:映像を感じる


       モンタージュというテーゼの問題提起は、エイゼンシュテインにあっては映画にとどまらない。

       「芸術は常に葛藤である。(1)芸術の社会的使命によって、(2)芸術の性質によって、(3)芸術の方法論によって。
       (1)芸術の社会的使命によってとは、存在の矛盾を明らかにすることが、芸術の仕事だからである。それは観客の意識内部に矛盾を喚起して、公平な見解を形作ること、相対立する情熱のダイナミックな衝突から、正確な知的概念を創出することである。
       (2)芸術の性質によってとは、芸術の性質が自然的存在と創造的傾向との葛藤だからである。それは有機的な慣性と目的意識的な創意との葛藤である。自然と産業の交差点に芸術が立っている。」(「映画形式への弁証法的アプローチ」(1929年)『全集』p.112)

       (3)の芸術の方法論的な側面については、もちろんそれがエイゼンシュテインにおいて主題とされているものである。ここでそれを詳しく取り上げるわけにはいかないが、「映画形式への弁証法的アプローチ」や「映画における四次元」(1929年)といった論考の中では、モンタージュの概念によって、映画の視覚・聴覚的なあらゆる要素の関係の現れ方が、総合的に考察されていく。その中でモンタージュはさまざまなヴァリエーションをともなって示され、拡張され、発展していく。

       「部分的なドミナント(基調音)によるオーソドックスなモンタージュと違い、『全線―古きものと新しきもの』は、まったく別の形でモンタージュされている。ドミナントが独裁的な力をふるう「貴族主義」の代わりに、全刺激が複合体として、総合計において考えられる「民主的」な平等の方法が登場した・・・こういう風にして達成された総合計は、任意に葛藤的な結合を見せ、相互に対置されることもできる」(「映画における四次元」p.93-94)

       エイゼンシュテインはこのようなモンタージュを、「オーヴァートーン(倍音)・モンタージュ」と呼ぶ。それは映像の視聴覚を生理的に結合し、「映像を感じる」という総合的な次元へと導く。

       「一画面が視覚であり、音調が聴覚だとすれば、視覚的なオーヴァートーンも、聴覚的なオーヴァートーンも、総合計的な生理感覚である。その二つのオーヴァートーンのために、新しい同じ簡潔な表現『感じる』が登場する」(前掲論文 p.98)



      D - 知的映画:映像による思想/思想による映像

       やがてエイゼンシュテインは、そのモンタージュの思想をさらに、もっとも大胆で、もっともラディカルな考え方、方法論へと高めていく。そのテーゼはまた、非常に謎めいていて、多くの誤解や批判にさらされてきたものである。

       「私たちの時代における芸術の前進運動は、『論理の言葉』と『イメージの言葉』という原始的なアンチテーゼの間に立つ、万里の長城を吹き飛ばさなければならない。来るべき芸術の時代は・・・科学と芸術の両者を、質的に統一された新しい見解に導き入れる。・・・科学に官能性を復活させること。知的過程に燃焼と情熱を復活させること。抽象的な反映過程を実際的な行動の熱情に投げ込むこと。それが挑戦である。それがいま私たちが踏み込みつつある芸術の時代に、私たちが要求するものである。こんなことを要求しても多すぎることのない芸術はどれだろうか?全体として、また唯一、映画、すなわち知的映画だけである。情緒的な映画、記録的な映画、そして絶対映画の総合としての知的映画。知的映画だけが、『論理の言葉』と『イメージの言葉』との間にある不調和を解決することができる。」(「展望」(1929)『全集』p.57-58)

       「映画は、思考過程を具体的に呼び起こすことのできる、ただ一つの、同時にダイナミックな芸術である・・・思考過程そのものは、もともと運動である。・・・観衆の知性に働きかけることは、映画によって初めて成し遂げられるものである。私たちは、これまで、思想と感情の間に成立する―純粋の哲学的思索と情緒の間に成立する―陰鬱な二元論に、悩まされ続けてきている・・・この二つの偉大な総合を作ることのできるものは、―すなわち知性を、その現実の源泉であるイメージと情緒とに還元することのできるのは―ただ映画だけである」(「知的映画」(1929年)、『映画の弁証法』)

       こうして、芸術と思想を統合し、それを大衆に解放するものとして、モンタージュは一つの究極の姿を「知的映画」として、(理論上では)見出すことになった。しかしそれは、「すべては葛藤である」とするこの天才の人生に相応しい、劇的な葛藤の頂点となって現実化することになった。なぜならこの知的映画(その映画は「マルクスの資本論」と名付けられていた)は、結局企画のみで実現されることなく、エイゼンシュテイン自身が後に知的映画のテーゼが行き過ぎであったことを認めるに至ったからである。

       そしてそれはエイゼンシュテイン自身の人生にとっても大きな転機であった。なぜならそれは、まさにスターリンの政策によってソヴィエトの芸術が抑圧・陳腐化されていく時期であったからである。その後、芸術の前衛や実験は徹底して潰され、芸術は「社会主義リアリズム」へと一元化され、映画は大衆に受けの良いメロドラマ的なプロパガンダに堕していく。エイゼンシュテイン自身もまた、形式主義として批判され、時代を生き残るために自身の思想・方法論を放棄して、転向せざるを得なくなる。そしてこの後、エイゼンシュテインをめぐる状況はずっと困難なものとなり、ほとんど作品を完成させることもできなくなってゆくのである。

       確かに、以下のような知的映画についての言説は、もっとも論議を呼ぶところだろう。

       「映画芸術は、具体的な概念にまとめられた抽象的単語を操作するだろう。新しい段階は概念の旗印のもとに―スローガンの旗印のもとに歩き始めるだろう。・・・スローガンを直接映画的に伝達する芸術となるだろう。慣れた言葉で思想を伝達するのと同じように、混じりけのない直接の伝達へ。素材としてのスローガンの時代に代わって、スローガンが直接素材化する時代へ」(「私たちの『十月』―劇と非劇のかなたに」『全集』p.47-48)

       もちろんこの「概念を直接イメージ化する」という考えは、あまりに純朴に理想主義的に見えるし、ある種原理主義的な危険な響きさえも感じられるだろう。確かに表面的に読む限りそれは否定できない。

       だがそれは、本当にただの「行き過ぎ」た「急進主義」の誤りを表しているだけなのだろうか?それとも、すべてを政治のスローガンにしてしまう、「共産主義」に汚染された危険な考えなのだろうか?あるいは、エイゼンシュテインはやはりどこまでも「芸術家」なのであり、そのテキストは理論的な見かけをとってはいても粗雑なものであり、それはあくまで熱に浮かされた芸術家のパフォーマンスとして「大目に見る」べきなのだろうか?

       いや、そうではないのではないだろうか。むしろ私たちは、その「知的映画」の急進性を、「事実」として硬直的に読むのではなく、それが指し示す「可能性」を見ることによって、その問いを真摯に受けとめることが必要なのではないだろうか。すなわち、エイゼンシュテインが言ったように、そして実践的にも目指したように、芸術(映像)が思想であり、思想がまた芸術(映像)であるのなら、エイゼンシュテインの映画もまた思想であり、彼の思想もまた芸術(映像)なのである。

       このような視野に立つならば、彼の映画によって、私たちの内面に爆発的に喚起される感情・心理的なものは、それ自体が思想としてとらえられるべきだろう。それこそが、映像を思想的な経験として見る、ということだろう。またひるがえって、エイゼンシュテインの言葉を読むとき、まるで留めきれない奔流のように溢れ出す理念が、私たちの思想とダイナミックな葛藤を起こすのが感じられないだろうか。そのとき私たちは、彼の思想(テキスト)によって、何かイメージや感覚と呼ぶべきものが湧き上がるのを感じないだろうか。そしてそれこそは、モンタージュの実践として、思想を映像的な経験として読む、ということに他ならないのではないだろうか。



      参考上映:『戦艦ポチョムキン』セルゲイ・エイゼンシュテイン(映画、ソ連、1925年)




      『全線―古きものと新しきもの』セルゲイ・エイゼンシュテイン(映画、ソ連、1929年)




      参考文献:ジェイムズ・モナコ『映画の教科書』(岩本、内山、杉山、宮本訳、フィルムアート社、1983年)
      『エイゼンシュテイン全集 第六巻 星のかなたに』(田中ひろし他訳、キネマ旬報社、1980年)
      セルゲイ・エイゼンシュテイン『映画の弁証法』(佐々木能理男訳・編、角川文庫、1953年)
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      レッスン 3 「メディアはメッセージである」
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        06.02.2009 講義レジュメ
        レッスン 3

        「メディアはメッセージである」




        A - この一見浅薄な、だが悪魔的なテーゼ

        B - メディア社会の反環境としての芸術

        C - マクルーハンを批判的に読むために




        A - この一見浅薄な、だが悪魔的なテーゼ


        私たちは前二回、現代における映像のあり方をとらえるための、基本的な視野をひらくために、二つのテーマを取り上げて考えることをおこなった。一つ目は、映像が事実と言語の中間に位置し、トラウマ性と言語的な意味付けの両極の間で揺れながら、映像それ自体の力をメディアとして持つのではないかということを考えた。二つ目は、映像の技術的・社会的な特徴についての視点から、メディアの時代の映像が大衆社会と密につながっており、アクチュアリティというあり方を持つということを見た。

        今回は、今日の映像を特徴づけている「メディア」性というものについて考えるきっかけを持つことにしよう。そのために、メディア論のもっとも基本的な出発点ともなった、マーシャル・マクルーハンのテーゼ、「メディアはメッセージである」をめぐって考えてゆくことにしたい。

        「メディアはメッセージである」。このテーゼは、不思議である。なぜなら、それは「形式は内容である」とか「外部は内部である」などと言っているようにも聞こえるからだ。また、それは思わず不注意にもらされたかのような浅薄な見かけも手伝って、さまざまに誤解され、牽強付会され、毀誉褒貶にさらされてきた。だがいずれにせよ、この言葉がビッグ・バンとなって、いわば「マクルーハン・ショック」が起こり、「メディア論」の歴史が明確に始まったのである。それでは、この「苛立たしいまでに痴呆的」(エンツェンスベルガー)とも評されるテーゼから、私たちは何を学ぶことができるのだろうか?それにしても、このクラインの壷を思わせる言葉には、何か不気味な、悪魔的な響きがあるのではないだろうか?

        「いまここで考察しているのは、(メディアが)既存のプロセスを拡充したり加速したりするときの、デザインあるいはパターンが、心理的および社会的にどのような結果を生むか、ということだ。なぜなら、いかなるメディア(つまり技術)の場合でも、その「メッセージ」は、それが人間の世界に導入するスケール、ペース、パターンの変化に他ならないからである。」(p.8)

        このテーゼが意味しているのは、単に「メディアの内容だけでなく形式が持つ、社会的・心理的な環境への効果についても注意を払うべきだ」という程度のことに過ぎないのだろうか。それを少しばかり奇をてらって表現してみただけのことなのだろうか。

        いや、このテーゼは実はもっと根本的な問題提議を含んでいるのではないだろうか。それは電子メディアの時代において、メディアの内容以上に、メディアの技術的・社会的側面そのものこそが、圧倒的に世界を作り変え、人間の内面をも作り変えていくということである。つまり、たとえ「内容」が旧来と同じであっても、新しいメディアはまったく新しい結果をこの世界にもたらすのである。このことを、映画とテレビの例について、マクルーハンは次のように述べている。

        「『メディアはメッセージである』というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。いま、テレビがわれわれを取り巻きながら知覚されていないのは、いっさいの環境がそうであるのと同じである。われわれはその「内容」すなわち古い環境にしか気付いていない。」(序文 p.3)

        つまり、メディアの「内容」に相変わらずとらわれている見方は、「新しい環境」の力を見ていない。それは、自分がメディアの影響から逃れた客観的なところにいるとうぬぼれている。だが実はその見方自体がすでに、自分を取り巻く「新しい環境」を作り出しつつメディアの、その「結果」でしかない、ということに気付いていないのである。そしてその見方による意見の表明もまた、どこまでもメディア的な環境によって条件づけられ、意味付けられているのである。マクルーハンはこのような近視眼的な見方をくり返し批判している。

        「すべてのメディアに対する従来の反応は、重要なのは用い方だという反応であるが、それは麻痺を起こした技術馬鹿の陶酔状態である。」(p.18)

        そうすると、次にこのテーゼの恐るべき側面が浮かび上がってくるのではないだろうか。つまり、現代におけるあらゆる思考や見解、行動などが、メディアの結果であるということになるのである。そしてその中には当然、このテーゼを思考するマクルーハン自身もまた含まれるのである。

        こうして、世界はメディアによってすっぽりと覆われ、統合され、全体的に支配されたものとして現れることになる。世界はその全体がメディアによって生み出されたものであり、どんなものもその内部から逃れることはできない。外部はすなわち内部なのである。つまり外部はどこにもない。そしてメディアだけが唯一絶対、万能の神のように、世界を自分自身の原理にしたがって生み出し、作り変え続けてゆく・・・。

        「電気の時代には、われわれの中枢神経組織が技術的に拡張して、人類全体を自身の内に巻き込み、人類全体を自身の内に同化するにまでなっている・・・現代は不安の時代である。電気の内爆発(implosion)のために、いかなる「視点」とも無関係に関与と参与を強いられるからだ。視点というものが持つ部分的で特徴的な性格が、どんなに高貴なものであろうとも、それは電気の時代に役をなさない。」(p. 4-5)

        ここにはベンヤミンが「大衆時代のアクチュアリティ」として考察したものと同じ視点が現れているとも言えるだろう。ただし、ある種の悪魔的な響きをともなっているが・・・。



        B - メディア社会の反環境としての芸術


        では、このようにメディア社会が、すべてのものがメディアによって支配された、その外部を持たない世界として出現するならば、私たちはいかにして、その全体についての視野を得ることができるのだろうか。それとも私たちは世界と批判的に関わろうとすることをあきらめて、ただ神のごときメディア自身の原理によって自己発展する世界に内側から盲従していく他にはないのだろうか?

        ここでマクルーハンは、芸術という方法論を持ち出すのである。

        「技術の効果は意見あるいは観念の水準で生ずるのではなく、知覚の比率ないし図柄を着実に否応なく変えてしまうのだ。真剣な芸術家だけが、技術に遭遇しても無事でいられる唯一の人間である。そのような芸術家が、感覚知覚の変化を意識することにかけて熟達した人間であるからに他ならない。」(p.19)

        「われわれの増殖して止まない技術が次々と新しい環境全体を生み出してくるにつれ、芸術こそが環境そのものを知覚する手段を提供してくれる「反環境」あるいは「対立環境」であることを、人間は自覚するようになった。」(序文 p.4)

        ここで言われる芸術が、従来のジャンルとしての「芸術」ではないことに注意すべきである。そのようなものは単にメディアの「内容」であるにすぎないだろう。そうではなく、ここではベンヤミンの場合と同じく、社会を新しく発見するという本質的な意味から考えられた、「新しい芸術」が提案され、よび求められているのである。それは、世界を覆い、支配するメディアの運動そのものと、その内部から批判的に向かい合い、それを認識するための試みをやめない、実験的な活動のことである。そのような芸術が、「反環境」や「対立環境」と呼ばれ、環境の内部にありながら、同時にそれを相対化する視点を与えることができるものとして言われているのである。



        C - マクルーハンを批判的に読むために

        ところで、マクルーハンの思考には、特にその政治的な見通しにおいて、ある楽観主義的な見かけがあり、それが都合良く表層的に理解される原因となってきたことは否めない。彼の名は、しばしば「IT革命」や「メディア・アート」といった、メディア=技術=産業を礼賛するような政治的風潮と結びついてきた(現在でもそうである)。

        「めまぐるしく変わる技術自体が・・・いまや芸術の機能を演じ始める。・・・(このような)芸術は、・・・エリートのための特権的な滋養という役割ではなく、人間に欠くことのできない知覚の訓練という機能を帯びる。」(序文 p.4-6)

        「オートメーション(情報化、と言いかえても良いだろう)は・・・機会時代の機械的、専門分化的労役から人間を解放する。・・・われわれは突如として自由という脅威にさらされ、社会において自己雇用をおこない、想像力によってそこに参加していく内的能力に重い負担を課せられることになる。これは、社会の中で芸術家の役割を果たすように人々に呼びかける運命の声といっていいだろう。」(p.375)

        つまり、技術の新しさがそのまま芸術となり、技術=芸術はおのずから民主主義を実現させ、それは万人のものとなる・・・。このようなストーリーは、インターネット環境など現代のメディア情報化社会の状況と、一応対応しているように見えるし、そのように制度によって喧伝されてもきたと言えるだろう。

        確かにマクルーハンの「予言」は実現したのかもしれない。ただし、その批判的な側面を捨て去った上で。そしておそらくはマクルーハン自身が、その思考の批判性になかば無意識であったのかもしれない。それが彼の論考を、その悪魔的な響きと楽観主義的な見かけへと引き裂いているのではないだろうか。

        だが、いまの私たちに必要なのは、その楽観主義を現状肯定のために利用することではなく、そこに秘められた不気味な響き、常にメディア社会へと批判的なまなざしを送り続けているマクルーハンの「無意識の声」に、耳を傾けることではないだろうか。世の中にあふれかえる、「マクルーハン=メディア社会礼賛」に流されることなく・・・。

        参考上映:『虚構の砦』瀧健太郎(ビデオ、日本、2004年)




        参考文献:
        マーシャル・マクルーハン『メディア論ー人間拡張の諸相』(栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年 )
        ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー『メディア論のための積木箱』(中野孝次、大久保健治訳、河出書房新社、1975年)
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        レッスン 2 追記
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          レッスン2「メディア映像のアクチュアリティ」にて、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』と対比させるため、ファシズム的な映画として、

          『民族の祭典』レニ・リーフェンシュタール(映画、ドイツ、1938)

          を上映した。
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          レッスン 2 「メディア映像のアクチュアリティ」
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            05.12.2009 講義レジュメ
            レッスン 2

            「メディア映像のアクチュアリティ」




            A - 複製技術時代の芸術(1)―アウラの消滅

            B - 複製技術時代の芸術(2)―近さと反復

            C - 複製技術時代の芸術(3)―礼拝的価値から展示的価値へ

            D - 複製技術時代の芸術(4)―大衆の参加、自己表現、無意識、散漫





            A - 複製技術時代の芸術(1)―アウラの消滅


             今回は、映像メディアのある技術的な特徴からうまれる、いくつかの基本的な働きについて考えていくことにしよう。その特徴とは、「複製の技術」ということである。そのために、メディアについての古典的な文献である、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』(1936)を、導きの糸としたい。

             複製技術とは何か?「複製技術の時代」は、19世紀初頭の写真の発明とともに始まる。複製技術時代の映像である写真と映画は、それ以前の複製(印刷、版画、鋳造など)とは一線を画す。また写真・映画と、ヴィデオ以降の「情報技術」的な映像の間には、大きな段階の差があるが、情報技術的な映像もまた、複製技術としての映像の特徴をいろいろな面で引き継いでいる。したがって、その違いは後に見ることとして、ここでは情報的な映像の土台として、複製技術的な映像について、まず見ていくことにしよう。

             「写真技術によって、人間の手が形象の複製プロセスの中でこれまで占めていた一番重要な芸術的役割は、今度は対物レンズに向けられる眼にふりあてられることになった。」(p.11)

             まずベンヤミンはここで、何が「芸術」で、何が「芸術」ではないのか、ということはまったく問題にしていない。つまり彼の「芸術」は、「感性の対象である人工物」を一般的に指していると言っていいだろう。ここで扱われる映像の「芸術」は、ジャンルとしては「エンターテインメント」も「ニュース」も「アート」も「記録映像」も「科学的な映像」も、すべて含んだものだと考えることができる。あるいは、ベンヤミンはここで映像について、従来の「芸術」というジャンルの定義によらない、まったく新しい見方による「芸術」のあり方を考えることが目的だったと言えるだろう。

             「『本物』としての権威も、相手が技術的複製となると、そうはいかなくなってしまう。・・・芸術作品の『いま』『ここ』にしかないという性格は、ここで完全に骨抜きにされてしまう。・・・複製技術の進んだ時代の中で、滅びゆくものは作品のアウラである、と言えよう。・・・複製技術は、これまでの一回限りの作品の代わりに、同一の作品を大量に出現させ、こうして作られた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手の方に近づけることによって、一種のアクチュアリティを生み出している。」(p.13-14)

             アウラ(Aura)とは何か?ベンヤミンは「どんなに近距離にあっても、近づくことのできないユニークな現象」(p.16)と言っている。それはあるものの「いま・ここ」性である。つまり、それが一回限りでかけがえのないものであるということによる近寄り難い魅力、のことである。

             写真や映画は、あらゆるイメージを不確実な人間の手を介さずに、直接機械的・光学的に複製する。それは映画がいろんな映画館でかけられるように、さまざまな状況に柔軟に適応して、観客に近づいてくる。またそれは、何度でもまったく同様に反復することができる。こうして写真や映画は、事物の「いま・ここ」性、アウラを失わせる。複製技術の映像は、ユニークな事物が持つのとはまったく異なるアクチュアリティを持つことになる。では、そのようなアクチュアリティは、どのようにして働くのか?



            B - 複製技術時代の芸術(2)―近さと反復

             「アウラの消滅は、現今の社会生活において大衆の役割が増大しつつあることと切り離し得ない二つの事情に基づいている。すなわち一方では、事物を空間的にも人間的にも近くへと引き寄せようとする現代の大衆の切実な欲望があり、他方また、大衆がすべて既存の物の複製を受け入れることによって、その一回限りの性格を克服する傾向が存在する。」(p.16)

             「事物をおおっているヴェールを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴であり、現代の世界では『平等に対する感覚』が非常に発達している・・・リアリティの照準を大衆に合わせ、逆にまた大衆をリアリティの照準に合わせることが、思考面でも、視覚面でも、無限の射程距離を持つ動きとなっている。」(p.17)

             つまりベンヤミンによれば、「近さ」と「反復」が、複製技術的な芸術が持つアクチュアリティの特徴である。それは従来の特権を崩そうとする大衆の平等への欲求の表れである。このような大衆の役割が増大した社会的な状況が、メディア・映像についての感覚・感性を変化をさせている。

             映像(のリアリティ)は大衆社会に密接に関係する。逆に言えば、映像の感覚や方法、美学などについて考えるとき、大衆社会という現象を離れては考えることができない。そしてそのような映像メディアの特徴は、複製技術という技術によって生み出されている。このように映像をめぐって、<アウラを失わせる複製技術>、<平等へと向かう大衆社会>、そして<近さや反復の欲求という内面的感覚>、の三つの要素が緊密に繋がっているのである。



            C - 複製技術時代の芸術(3)―礼拝的価値から展示的価値へ

             「芸術作品に接する場合、いろんなアクセントの置き方があるが、その中で二つの特徴が際立っている。一つは、重点を芸術作品の礼拝的価値におく態度であり、もう一つは、重点を作品の展示的価値におく態度である。」(p.19)

             「今日の芸術作品も、その絶対的なアクセントを展示的価値におくことによって、これまでとは異なるさまざまな機能を持つようになった。」(p.20)

             複製技術は、事物とくに芸術作品を、儀式や礼拝と関係するような、アウラに基づいた宗教的な価値、いわゆる「ありがたさ」から引きずり出してしまう。このような転換は、絵画や彫刻でも同様のことが起こっていた。つまりかつて貴族やブルジョワの屋敷や教会などで個人的に私有され、鑑賞されていた作品は、美術館などの公共空間で展示され、不特定多数の人々が平等に近づくことができるようになったのである。このような礼拝から展示への移行は、大衆の平等へ向かう欲求と活動、つまり「民主主義」の運動と軌を一にしている。したがって、それは政治的な側面を大きく持っているのである。

            参考上映:『カメラを持った男』ジガ・ヴェルトフ(映画、ソ連、1929年)






            D - 複製技術時代の芸術(4)―大衆の参加、自己表現、無意識、散漫

             「映画もスポーツとまったく同様、その技術が展示される演技を、誰でもなかば専門家として見物することができる。」(p.30)

             「映画館の中では、観客の批判的態度と享受的態度とは、完全に一つに融け合っている。」(p.34)

             「映画に出ることは、今日の人間の誰でも可能な要求である。」(p.30)

             「映画の特徴は、人間がカメラに向かって自己を表現する仕方に見られるだけでなく、カメラの力を借りて周囲の世界を表現する仕方にも見られる。・・・映画もまた、視覚的記号世界、そして現在ではさらに聴覚的記号世界の全域にわたって、知覚の深化をもたらしている。・・・カメラに向かって語りかける自然は、肉眼に向かって語りかける自然とは別のものだ。・・・われわれは、精神分析によってはじめて無意識的な衝動の世界を知ることができるように、映画によってはじめて無意識的な視覚の世界を知ることになるのである。」(p.36-38)

             「芸術作品に対する受け手の側の、これまでのさまざまな態度が、現在新たに生まれ変わる母胎は、大衆である。きわめて膨大な大衆の参加は、参加のあり方そのものを変えてしまった。・・・芸術がそのもっとも困難かつ重大な課題に立ち向かうのは、芸術が大衆を動員できる場所においてである。目下のところ、その場所は映画の中である。芸術作品に対する散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化の徴候として、芸術のあらゆる分野において、いよいよ顕著に認められるようになったが、ほかならぬ映画こそ、その本来の実験機関なのである。」(p.42-44)

             ベンヤミンはこのように、映像メディアが大衆の主体的な参加によって、人々の自己表現や批判の相互作用をもたらし、そして世界をいっそう深く見るための方法になると信じていた。そして大衆の「散漫」な映像メディアへの感性こが、芸術を鍛え上げ、展示的価値に基づいた新しい芸術の感性を作り出すものだと考えていた。

             私たちは現在、携帯電話のカメラで誰もが自己表現し、インターネットで誰もが社会批判に参加している。電子の情報ネットワークは、映画館など比較にならないほど、大衆を動員している。情報の時代、視覚や聴覚の記号は生活の中のいたるところ、大量に氾濫している。私たちはますます散漫に映像を享受し、それに反応している。空間的にも時間的にも、私たちの知覚はメディアによって変容し、拡張している。その意味では、まるでベンヤミンが考えていた「大衆の参加する社会」や「展示的価値の芸術」を、実現してしまったかのようにも見える。

             だがそれによって、私たちは「世界を深く見る」ことになったのだろうか?私たちのメディア社会の姿が、ベンヤミンが言う「知覚の深化」の実現なのだろうか?

             この書物は最後、有名な文章で終わる。「人間の自己疎外はその極点に達し、人間自身の破滅を最高級の美的享楽として味わうまでになったのである。これがファシズムの広める政治の耽美主義の実態である。共産主義は、これに対して、芸術の政治主義をもってこたえるであろう。」(p.46)

             ベンヤミンは、ファシズムと戦争の脅威を前にして、この論考を書いた。そしてその「映像メディアによる大衆の解放」という理念は、「共産主義―マルクス主義」の希望と一緒になって目指されていたのである。

             そして一方、いまだ資本主義は継続し、いわゆる「共産主義国家」は崩壊し、今では資本主義こそが唯一の「民主主義」であるかのように言われている。では、資本主義に反対して、共産主義を民主主義の理想と見ていたベンヤミンは、まったく間違っていたのだろうか?そしてベンヤミンが夢見た「映像メディアによる大衆の解放」は、資本主義の中でめでたく達成されたのだろうか?

             むしろ資本主義が、ベンヤミンが示したような方法を、ベンヤミンとは逆の目的で、つまり「大衆の支配・抑圧」のために利用して、今日にいたるメディア社会ができあがったのではないだろうか?「人間自身の破滅を最高級の美的享楽として味わう」という言葉は、まるで現代のメディアや社会を指しているかのようにも聞こえないだろうか?ベンヤミンの論考の楽観主義的なみかけを超えて、より深くその声を聞くことが必要ではないだろうか?

             「芸術の政治主義」とはどういうことか?それが「知覚の深化」と分ちがたく結びついているならば、ベンヤミンの論考は、その片方(共産主義による大衆の解放)が「間違い」で、もう片方(メディアの発達による知覚の変容)だけを読み取ればよいのだ、として片付けることはできないのではないだろうか?「参加のあり方」について考えたときにはじめて、「知覚の変容=深化」の意味するところも、浮かび上がるのではないだろうか?

             ベンヤミンは、最後近く、次のような一文を残している。
            「ファシズムは、所有関係はそのままにして、大衆を組織しようとする。ファシズムにとっては、大衆にこの意味での表現の機会を与えることは、大いに歓迎すべきことなのだ。それは大衆の権利を認めることでは絶対にない。」(p.44)



            『複製技術時代の芸術』訳書:
            晶文社版(今回の引用はこれによる)「ヴァルター・ベンヤミン著作集2」、高木久雄、高原宏平訳、1970年
            岩波文庫版『ボードレール他五編』(「ベンヤミンの仕事2」)、野村修訳、1994年
            ちくま学芸文庫版『ベンヤミン・コレクション<1>近代の意味 』、浅井健二郎訳、1995年
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