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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
レッスン 10 「日本の実験映像(2)- 飯村隆彦 - 構造とコンセプチュアル」
0
    11.17-11.24.2009 講義レジュメ
    レッスン 10

    「日本の実験映像(2)- 飯村隆彦 - 構造とコンセプチュアル」



    A - 個人性の映像

    B - 構造からコンセプチュアルへ

    C - ヴィデオにおけるアイデンティティとその記号学

    D - 他者を発見する私



    A - 個人性の映像

     今回私たちは、松本俊夫とならぶ日本の実験映像の、理論と実践両面におけるパイオニアであり、前回あつかった構造映画の運動にも参加するなど世界的な活動を展開する作家、飯村隆彦の作品と思想について考えていきたい。

     飯村は1937年生まれ。1960年ごろから8ミリによる個人映画制作を始め、小野洋子、土方巽、小杉武久、中西夏之らとのコラボレーションや、大林宣彦らとのフィルム・アンデパンダンの結成(1964年)など、1960年代に日本のアンダーグラウンド運動の旗手となる。1966年に渡米、NYにてジョナス・メカス率いるアメリカン・アンダーグラウンドの運動に参加。また夫人の昭子とともにアメリカの前衛芸術シーンを紹介する執筆活動なども多くおこなった。やがて70年代にはイメージを究極にミニマル化して、映像における時間と空間の構造を探る作品へと傾倒。それらはコンセプチュアルな映画として、世界的に見てももっとも先鋭的な試みのひとつと言えるだろう。1970年頃からヴィデオ・アート作品の制作を始め、やがてフィルムからヴィデオ中心に移行する。その作品は特に「ビデオの記号学」と呼ばれるような、ヴィデオ映像特有の構造をミニマルな形式によって追求する特徴を持つ。

     ではさっそく、飯村の映像作品と思想について見ていくことにしよう。まず彼の初期作品や活動にあらわれる、飯村特有の視点について見ていこう。

    参考上映:『くず』飯村隆彦(映画、日本、1962年)




     「・・・東京湾の晴海海岸に打ち棄てられたくずと動物の死体から、主観的なイメージを作り上げたものであった。私は晴海の海岸をさまよいながらカメラでくずを収集し、それらに生命を与えていった。映画はものたちへのオマージュであったが、同時にカメラを持つ私の手や足が画面に入り込んで、あるいは自分の影が投影され、ものと私とのかかわりも介入した」(『パリ=東京映画日記』p.35)

     この処女作にあらわされているのは、ドキュメンタリー的な客観的事物の姿ではなく、あくまで主観的な視点に基づいた、作者自らと事物との関係であると言えよう。飯村にとって映画とは、いわばはじめから、自らの視線をあらわすための手段である。したがってそのノイズも含めて、イメージのすべてが、作家自身のアイデンティティの表明であると言えるだろう。(その作品が50年近くたった今日もなお、いわゆる「映画」を求める観客から、時に猛烈な反発を受けることがあるのは、そのためではないか。つまりそれは徹底して主観的であるために、エンターテインメント的な受け身の映像体験に慣れた観客をいらだたせるのだろう。)

     その意味では、これはブラッケージの姿勢に近いものと言えるかもしれない。だがすでにこの作品にあらわれている飯村特有の「クール」な感覚にも注目したい。主観的な映像でありながら、そのイメージに情緒的・ナルシスティックに溺れきってしまうことなく、そこにはつねにある醒めた、知的な視点が働いているように思われないだろうか。特に飯村が自分の体の一部を写すとき、何か自分とものとの関係をクールに見つめるもうひとつの視点が、そこにあらわれるようだ。

     ところでこの飯村の「個人性の映像」という思想は、やがて日本におけるインディペンデント映画運動の始まりである、フィルム・アンデパンダンの結成へとつながっていくこととなる。だがそのあくまで主体的・個人主義的・知的な姿勢は、やがて飯村にその活動の中心を日本からアメリカ・ヨーロッパへと移していくことを余儀なくさせることになる。(そのあたりもまた、あくまで日本にとどまり、著述や教育を通して国内に大きな影響力を持ち続けた松本俊夫と対照的である。)



    B - 構造からコンセプチュアルへ

     60年代後期、NYへと活動の舞台を移した飯村は、ある種過激な形で作家主義的な映画制作へと向かう。それはイメージを究極まで排することで、映画の構造を概念的に明らかにしようとする、一連の作品群となって結実する。それらはたとえば、白、黒の画面のみ、あるいは数字や線といった、ほとんど視覚的な意味を持たないものだけで構成されている。

    参考上映:飯村隆彦『1秒24コマ』(映画、日本/アメリカ、1975-78年)




     たしかにこの作品には、一般的な映画に見られるような視覚的な「豊かさ」は一切欠けている。だがそれを見ることは、単に哲学の本を映像でなぞるような観念的な経験なのでもない。ここで示されようとしている概念が、ある視覚的な(たとえば白黒の明滅という)感覚として体験された瞬間、突然このミニマルな、一見きわめて貧しい映像は、まったく別の意味でその豊かな相貌をあらわにする。つまりまさに映像そのものによって、あくまで映像的な体験として、ある思想的な概念が具体性を持って体感されるのだ。



    C - ヴィデオにおけるアイデンティティとその記号学

     次に私たちはいよいよ、飯村芸術の究極ともいえる「ビデオの記号学」をかいま見てみることにしよう。飯村は『椅子』『ブリンキング』(1970年)など、日本でもっとも初期にヴィデオ作品を手がけた作家の一人でもある。それらの実験を経て、飯村は1970年代前期から現在にいたるまで、そのライフワークともいえる、ヴィデオにおけるアイデンティティのあり方を概念的に問う作品と思想を追求し続けている。

    参考上映:飯村隆彦『セルフ・アイデンティティ』(ヴィデオ、日本/アメリカ、1972年)



             『ダブル・アイデンティティ』(ヴィデオ、日本/アメリカ、1979年)



            『アイ・ラブ・ユー』(ヴィデオ、日本/アメリカ、1973-1987年)




     「基本的なアイディアは、私がカメラに向かって自分の名前を言い、それが肯定と否定、『私』、『あなた』、『彼』など主語を示す人称の変化によって、どのようにアイデンティティが形成されるかという問題を扱っている。」(飯村隆彦「デリダの理論とメタ・ビデオ」『カタログ』所収)

     これらの作品では、画像と「I」「You」「He/She」などを言う声とが、ときには同期し、ときには同期しない(口が隠れて見えないなど)。そうして、その人称のアイデンティティの場が、ときには画面内の人物となったり、画面の外からの抽象的な声となったり、あるいはそれを見る観客となったりするのである。このようなヴィデオにおけるアイデンティティの複層性と、それらの間の関係は、普段私たちが映像をみるときには意識されていないものである。飯村の作品では、そのようないくつかのアイデンティティの区別と、それらがいとも簡単に移りかわっていくさまが、見事に映像的な形であらわにされる。

     飯村の、ヴィデオにおけるアイデンティティをめぐる探求の中でも、もっとも代表的なものといえるのは『オブザーバー/オブザーブドとビデオ記号学』と名付けられた作品であろう。ここではその詳説は別紙の飯村自身による解説にゆだねることにするが、その一見何事もない映像が引き起こす、めまいを起こすような知的な映像的感覚を「楽しんで」みたい

    参考上映:飯村隆彦『オブザーバー/オブザーブドとビデオ記号学の他の作品』
    (ヴィデオ、日本、1976-1998年)






    D - 他者を発見する私


     「私たちはメディアを通じてまさに条件づけられているのです。声とアイデンティファイされるものとして映像は見られていますが、それはまさに操作されることが可能です。アイデンティフィケーションは、ひとつのレベルにおけるものではないのです」(飯村隆彦インタビュー「フィルムからヴビデオ、そのメタフィジックス」『飯村隆彦映像作品論集』所収、p.75)

     「アメリカが私にとって外国であることが、私のアイデンティティについて考えさせた。私が、日本にずっといたらおそらくこのようなビデオとしてアイデンティティを問題にすることはなかったと思う。日本では、アイデンティティは『与えられた』ものであり、アメリカにおけるように自ら『選んだ』ものではない。その意味で、私は自分のアイデンティティをビデオで選び、創作しなければならなかった」(「デリダの理論とメタ・ビデオ」)

     つまり飯村の探求の背景には、二つの問題提起があると言えよう。ひとつは、メディアの中におけるアイデンティティの問題。もうひとつは、国際的な状況におけるアイデンティティの問題。その二つのアイデンティティに関わる問題提起は、単に「私」という個人性だけを問題にしているのではない。飯村の作品では非常にシンプルな形ながら、つねに「私」と「他者(あなた、彼/彼女)」との関係が問われていることに注目すべきだろう。

     「『私』というのが大きなテーマで、ある種の『私地獄』の中に紛れ込んで、先が見えなくなっているのではないかという疑問もあると思います。・・・ビデオが自分を映すということで、非常にナルシズムであるという批判があり、それは現在もあると思います。私の場合もテーマとすればそういうものも含んではいますが、私自身はナルシズムではなく、むしろそこから開いていく、他人を発見していく場所として『私』を使っているわけです」(シンポジウム「見ること/聞くこと/話すこと」『カタログ』所収)

     そしてこのような飯村の先駆的な問いは、単にメディアへの哲学的な関心だけではなく、彼自身の世界的な活動において、「私への問い」と「他者の発見」を繰り返してきた、その具体的・実践的な経験の反映でもあるに違いない。それは、今まさに情報メディア社会や資本主義がもたらした「グローバリゼーション」の状況の中に生きる私たちに、「私」とは何か、「他者」とは何かを考えるための、導きの糸を与えてくれるのではないだろうか。

     飯村は数多くの映像作家の中でも、映像=イメージ的な物語や審美主義、視覚効果に一切たよることなく、あくまでクールに、「映像による思想」をもっとも突きつめた映像作家と言えるかもしれない。その過激なまでの映像の素っ気なさと知的な姿勢は、いわゆるエンターテインメント的なわかりやすさに満ちた映像を受動的に見ることに慣れた私たちを、面食らわせるかもしれない。

     だがじっくりとその映像と接するならば、私たちに開かれている「フリ」をするエンターテインメントと違って、飯村の作品は私たちという観客の「他者性」をあくまで尊重し、むしろ直接的に私たちに向けて開かれた問いかけであることに気付かされるのではないだろうか。飯村の作品は、その映像による思考のプロセスに、私たち自身が主体的に参加するときにはじめて、その比類なき「深さ」をあらわにするのだ。そしてそれはきわめて新鮮な、そして真摯な映像の経験となるだろう。



    参考文献:
    飯村隆彦『芸術と非芸術の間』(三一書房、1970年)
    飯村隆彦『パリ=東京映画日記』(書肆風の薔薇、1985年)
    『映像実験のために』(青土社、1986年)
    『飯村隆彦FILM AND VIDEO』(京都文化博物館、1990年)
    『飯村隆彦個展「見ること/聞くこと/話すこと」カタログ』神戸アートビレッジセンター、2003年)
    『飯村隆彦映像作品論集』(飯村隆彦映像研究所、2005年)
    京都造形芸術大学編『映像表現の創造特性と可能性』(角川書店、2000年)

    | resume | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    レッスン 9 「抽象映画と構造映画」
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      10.27-11.03.2009 講義レジュメ
      レッスン 9

      「抽象映画と構造映画」



      A - 抽象から構造へ

      B - 抽象映画

      C - 構造映画



      A - 抽象から構造へ


       前二回私たちは、無意識から溢れ出るイメージの奔流を表現しようとするような、二つの実験映像の試みを見た。そしてブラッケージについては、そこに個人の内面に根ざした「自由」への志向を見ようとしたし、また松本俊夫については、そこに状況と内面の相互作用による、「主体的な現実」の表現を見ようとした。

       だがその最後に、私たちは次のような問いをおいた。「私たちをめぐる政治やメディアなどの状況は、もはや現実性がなく、まるですべてが平板に映像・情報化してしまった」、そしてまた、「内面の隠れた無意識や情念などというものは、メディアや情報によって飼い馴らされたものになってしまった」のではないだろうか、と。

       今回私たちは、実験映像のまた別のアプローチをめぐって考えることで、異なる視点から「映像によって考える」ことを続けていきたい。それは1920年代に西ヨーロッパを中心にあらわれた「抽象映画」と、1950-60年代にアメリカと一部のヨーロッパにあらわれた「構造映画」である。これら二つの潮流は、30-40年の間をおきながら、モダニズムの時代が成熟する中で、批判的に継承されていく流れと考えることができる。そしてその二つの連続と対比に眼を注ぐことは、上の問いに対して、私たちがどのように思考を続けていけば良いのか、その視野を少し開いてくれることになるだろう。



      B - 抽象映画

       1920年代、抽象化を志向する映画作品の試みが、ヨーロッパを中心に同時多発的に発生する。それらは「純粋映画」や「絶対映画」などとも呼ばれた。その背景には、キュビズム、ダダ、デ・ステイル、ロシアやドイツの構成主義など、同時代の美術における抽象化の運動がまずあった。実際、それらの映画の主な作り手は、専門の映画作家ではなく、美術家であった。

       ここでは特に、ダダとの関連から生まれた抽象映画をまず見ていくことにしたい。


         参考上映:『リズム21』ハンス・リヒター(映画、ドイツ、1921年)



            『バレエ・メカニック』フェルナン・レジェ(映画、フランス、1923年)



           『エマク・バキア』マン・レイ(映画、フランス、1926年)




       「私の映画はいつも視覚による思想伝達に重点を置いており、マス・メディアあるいは娯楽としての映画を考えたことは一度もなかった」(リヒター『ダダ』、p.376)

       抽象映画の運動の中でも、ダダに端を発したものは、その抽象化の動機として、すでに緩んだ意味の中で形骸化してしまった、外面的・日常的なイメージへの強烈な否定があったと言うべきだろう。その意味で、それはその後内面的な「もうひとつの現実」を探していくことになるシュルレアリスムへの前哨であったと言えよう。だがシュルレアリスムの構築的な意志に対して、ここにはむしろ破壊的・解体的な衝動が働いていることが、まず注目される。

       だがそれは単なる破壊・解体ではなく、その先に新しい映像の世界を見出すものでもあった。このような試みは、映像を抽象的で単純な視覚的要素に純化することで、言語的・物語的な意味を離れた、より視覚的に訴える「強さ」を得ようとしたものと言うことができるだろう。(そのための助けとして、特にしばしば「対位法」や「リズム」といった音楽的な概念・アプローチが転用された。それは音楽が、言語的・物語的な意味からもっとも離れた、感覚的な純粋性を持つメディアであるからだろう。)

       さらにそれは、従来の物語的・幻想的な映像ではなく、感覚的であると同時に知的でもある、新しい映像体験を生み出すことになった。すなわち抽象映画では、メディアそれ自体、その素材やシステムが意識されながら見られるような映像体験が(当時はまだはっきりと意図されることなく)あらわれたのである。つまりいわば、「映像を見るということを見る」という芸術である。そのような特徴は、その後映像の構造へと意図的にアプローチする方法論として、構造映画を生むルーツとなったと言うことができるだろう。

       「マン・レイの『エマク・バキア』は、演劇の記録ではなくて、フィルムによるフィルムの記録とでも言うべき、メディアの発見であった。彼がカメラを使わずにフィルム上の物体に直接光を当てる方法は、フィルムという素材自身をひとつの創造的な媒体として成立させた。・・・それはマン・レイの次のような発言にも読みとることができる。『この映画は純粋に光学的なものであり、眼にのみ働きかけるものであった。それは見方と同様に考え方の結果でもあった』」(飯村隆彦「TV によるアイデンティティ」(1969)『芸術と非芸術の間』所収、p.119)



      C - 構造映画

       1950年代から60年代を中心に、主にアメリカン・アンダーグラウンド映画やヨーロッパのアヴァンギャルド映画の中で、抽象映画を批判的に継承したとも言える、ひとつの新しい形式があらわれる。それは「構造映画」と呼ばれるものである。構造映画は、それ以前の実験的な映像において主流であった、シュルレアリスムやイマジズム的な、心象・無意識的なイメージの表現というアプローチに対する、一種の反発と見ることもできるだろう。構造映画はむしろイメージ内容への偏重を排して、イメージの成立する外部的な構造そのものへの、分析的で知的なアプローチを特徴とする。


       参考上映:『アルヌルフ・ライナー』ペーター・クーベルカ(映画、オーストリア、1958-60)



            『スリープ』アンディ・ウォーホル(映画、アメリカ、1963)



            『波長』マイケル・スノウ(映画、カナダ、1967)




       構造映画を名付けた、アメリカの映画理論家ポール・アダムス・シトニーによれば、その定義は次のようになる。

       「構造映画は一貫してその形式を追求し、内容は最小限にとどまり、その外観は二次的なものとなっている。・・・構造映画の特徴を四つ挙げると、(1)固定されたカメラ位置、(2)光の明滅効果、(3)ループ状プリント(ショットの瞬間的反復と無変化)、(4)スクリーンの再撮影がある」(アダムス・シトニー「構造映画」『アメリカの実験映画』所収、p.188-189)

       その特徴は、西村智弘による簡潔な要約によれば、次のようになる。

       「構造映画は、フィルムという具体的な素材、カメラや映写のメカニズム、映画を見るという行為など、映画の基本的なシステムを作品として提示しようとした。構造映画には、映画によって映画の構造を検証するという自己参照的な性格がある」(西村智弘「映像のテクスチュア」『映像表現の創造特性と可能性』所収、p.129)

       さらに、構造映画の運動に自ら深く関わった飯村隆彦は次のように言う。

       「(構造映画、すなわち)知覚的な映画は、視覚重視の映画に対するひとつのリアクションであると同時に、それに対する批評を含む新たな展開である。それは、単に視覚から知覚へという感覚作用における移動ではなく、視覚の拒否による―しかも視覚手段によって―知覚の獲得である。・・・知覚的映画は、現在の映画実験のなかでももっともラディカルなものであり、とくにメディアに対する自覚においてそうである」(飯村隆彦「知覚における実験」(1968)前掲書、p.153)

       つまり構造映画が志向するのは、映像の(主に物語的な)視覚・イメージに耽溺することを否定して、知覚のレベルで、メディアへの意識を、映像的な体験の中に得ようとすることだと言えるだろう。したがってそれは、メディアそのものを問うという意味で「コンセプチュアル」な志向を強く持っていた。構造映画はひとつのモダニズムの成熟のあらわれとして、その作風はミニマリズム的に、一見きわめて反娯楽的な、ストイックな形であらわれることが多い。したがってそれは、もっぱら映画における運動ではあるが、フルクサスや初期のヴィデオ・アートといった、現代美術の潮流とも近接している。

       ところで、このような見かけの「そっけなさ」、一見まるで観客に忍耐を強いるかのような娯楽性のなさのために、構造映画は映像芸術の中でも、もっとも「難しい」部類の映像作品と思われるかもしれない。だがそれは、いわゆる高度にスノッブで難解な芸術、もしくは単に自閉的でほとんどの人にとっては楽しむことのできない無価値な映像なのだろうか?

       先の講義で挙げた問い、すなわち内面も外面もメディア化・情報化されてしまい、リアリティを失った私たちの状況を顧みてみよう。つまり、私たちは視覚・イメージにあふれた世界に生き、娯楽的な、また情報的な映像を日常的に摂取すればするほど、この閉塞した状況のなかにいっそう閉じ込められていっているのではないだろうか。それは日々、イメージを見れば見るほど、イメージを作ったり、流したり、消費したりすればするほど、「見ること」の意味を見失ってしまうような事態とも言えるだろう。

       そのようなとき、構造映画はいささか無骨に、イメージの安易な消費を否定することで、「見ること」そのものの体験へと、観客を立ち返らせてくれるのではないだろうか。それは観客を映像のもっとも基本的・原初的な体験へと向き合わせ、映像の前にしばし立ち止まらせようとする。そして映像や情報に流されるめまぐるしい日常の中では持つことができない、見ることと考えることを連動させる経験を、もう一度よみがえらせてくれる。そのとき、私たちはこの「映像による思考」によって、メディア・映像に覆われ閉塞した状況を、反省的・批判的に眺め、相対化するきっかけを掴むことができるかもしれない。

       つまり構造映画を作ること、そしてそれを見ることは、映像によって映像的な世界について考える行為なのである。そして大事な点は、それが単に知識や言語的な認識によって考えるということではないということである。このような思考は、あくまで映像的な感覚として体験されるのだ。つまり感覚がまた思考でもあり、感性的であり同時に知的でもあるような映像体験。

       それはたしかに私たちが慣れている、「感じないこと、考えないこと」の娯楽を与えてはくれないだろう。だがその代わりに、偏見を捨てて、少し気長に、真摯に、構造映画と向き合うならば、それはより深く見ることへと私たちを導いてくれるだろう。それはこのメディア・映像に盲目的に流されるのではなく、ごく小さな気付きから、眼を据えてその本質を問う勇気を与えてくれる。しかもそれは、高度で専門的な教養を必要とするようなものではなく、映像的な芸術体験として、誰に対しても開かれているのだ。そしてこのような構造映画のもたらす新鮮な体験は、誰でも「楽しむ」ことができるものなのではないだろうか。



      参考文献:
      ポール・アダムス・シトニー『アメリカの実験映画』(石崎浩一郎訳、フィルムアート社、1972年)
      ハンス・リヒター『ダダ』(針生一郎訳、美術出版社、1966年)
      飯村隆彦『芸術と非芸術の間』(三一書房、1970年)
      京都造形芸術大学編『映像表現の創造特性と可能性』(角川書店、2000年)
      伴野孝司・望月信夫『世界アニメーション映画史』(ぱるぷ、1986年)
      シェルドン・レナン『アンダーグラウンド映画』(波多野哲郎訳、三一書房、1969年)
      "Visionary Film" by Paul Adams Sitney, Oxford University Press, 1974
      | resume | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      レッスン 8 「日本の実験映像(1)- 松本俊夫 - 状況と無意識」
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        09.29-10.06.2009 講義レジュメ
        レッスン 8

        日本の実験映像(1)- 松本俊夫 - 状況と無意識」




        A - ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一

        B - 言語以前の感覚の追求へ

        C - 映像感覚という批評性



        A - ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一

         前回は、1950 - 60年代のアメリカにおけるアンダーグラウンド映画、特にスタン・ブラッケージの作品をめぐって考えることをおこなった。

         今回は、それとほぼ同時代から、日本における実験映像をリードしてきた作家、松本俊夫の作品と思想について考えていきたい。

         松本は1932年生まれ、パイクやブラッケージなどと同世代である。彼は1950年代なかばからPR映画やドキュメンタリー映画の制作とともに、映画評論の活動を始める。60年代にはその鋭く批判的な理論と、前衛的な映画の制作・活動によって、大島渚、寺山修司らとともに、日本の映画芸術の美学をリードする存在となった。『薔薇の葬列』(1969年)、『修羅』(1971年)などの長編劇映画と、70年大阪万博への参加を経て、70年代以降はその活動の舞台をヴィデオ・アートや実験映画、そして教育へと移していく。

         ではさっそく、松本の映像の思想について見ていくことにしたい。まず彼の映像の美学的な方法論に大きな影響を及ぼした作品を見ることから始めよう。

        参考上映:『ゲルニカ』アラン・レネ(映画、フランス、1949年)

         この作品について松本は次のように言う。

         「アラン・レネはピカソの『ゲルニカ』を直接の対象としながら、少なくともそれ自体の強みにもたれかかろうとはしていない。ひとつひとつのショットに写されたものは、むろんどれをとってもピカソの絵そのものである。しかしそれはあくまでも「レネの見たピカソ」、あるいは「ピカソを見るレネ」であって、言うならばピカソそのものではなくなっている。
         要するに、ここではすでに素朴な意味での記録性が否定されている。外側の世界にレンズを向けながら、その焦点は、まぎれもなくレネ自身の内側の世界に合わされているからである。彼はピカソを「見せよう」としたのではなく、「見よう」としたのであり、彼の記録しようとしたものは、彼自身の見たヴィジョンそのものに他ならない。」(「前衛記録映画論」『映像の発見』所収、p.49)

         「ドキュメントという言葉の新しい今日的な意味は、事実を事実としてそのアクチュアルな物質的現実を、それがまさに同時にそれと対応する内部現実の克明な記録であるような仕方で記録すること、外部の記録と内部の記録を、外部の記録を支配的な契機として、その二つの世界を弁証法的に統一することである。そして、その可能性の手がかりを、私は一般的にはほとんど問題にされていない(!)アラン・レネという作家の、わずか十分ばかりの作品『ゲルニカ』の中に見るのである。ここには、疑いもなくドキュメンタリーがアヴァンギャルドと統一される地点がある」(同上書 p.56)

         一方で松本は、シュルレアリスム、特にブニュエルの作品について次のように言う。

         「映像は、この目に見えない『もうひとつの現実』を、そのまま直接視覚化するというすぐれた能力を持っている。それは、いかに飛躍したイメージをも『作り』出すことができるのである。そのような映像は、ものの見方感じ方の常識性を『理屈抜き』に打ちこわし、人々の想像力を無限に解放してやまない」(「映画芸術の現代的視座」同上書、p.17)

         「『隠された世界』ということを、単に心の内側の問題に限られたものとして理解するとすれば、それは一面的であり、むしろ転倒している。なぜなら内部の隠された歪みは、最終的にはすべて外部の隠された歪みによって規定され、それを反映したものに他ならないからである。・・・表面上は安定と平和として現象しながら、刻々と亀裂を深めていく政治的危機。企業意識、改良主義など、数々の欺瞞と幻想。徹底して収奪されながら収奪するものに頼り、これを支持する牢固とした保守的庶民意識。労働戦線の奇妙な分裂。これら総体としての外部現実の実相は、その構造の本質に迫れば迫るほど、まさに不気味なものとして立ち現れてくるのだ」(「隠された世界の記録」同上書、p.91)

         このように、松本の映像とその方法論は、自身による明晰な理論的思考に裏付けされている。それは簡単に言うならば、映像の持つ二つの性格、「記録」性と「表現」性についてである。つまりまず第一に、外部を単に事実として記録するのではなく、主体的にそれと関わることによって、外部の記録を外部だけでなく内面をも写すようなものとすること(ドキュメンタリー→アヴァンギャルド)。そして第二に、こんどは逆に、内面の表現を外部の状況の反映として、もうひとつの無意識的な隠された現実として映し出すこと(アヴァンギャルド→ドキュメンタリー)。こうして、この外部の状況と内面の無意識の両者を、記録と表現という二つの方法の統一によって、統合的に映像化することである。それはすなわち、「ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一」である。

         そしてもちろん忘れてはならないのは、それが特に60年代的な政治状況、二つの安保闘争に挟まれた、左翼的な社会変革の機運の中で構想され、また実践されているということである。

        参考上映:『つぶれかかった右眼のために』松本俊夫(映画、日本、1968年)





        B - 言語以前の感覚の追求へ

         その後、松本は日本で最初のヴィデオ・アート作品とも言われる『マグネチック・スクランブル』(1968年、『薔薇の葬列』内で使用)などを制作し、状況が70年の革命運動の挫折、その後の失望の時代へと進む中で、実験映像へといっそう深く踏み込んでいくことになる。そこでは、直接的な政治性はなりをひそめ、さまざまなテクノロジーを駆使しながらも、より映像的な感覚そのものを、ダイレクトに開拓するような作品となっていく。

        参考上映:『メタスタシス』松本俊夫(ヴィデオ、日本、1971年)

                

        『モナ・リザ』(ヴィデオ、日本、1973年)



        『アートマン』(映画、日本、1975年)



         「私たちは何らかの新しい体験に直面したとき、しばしばそれをうまく言葉で表現することができない。・・・感覚作用は言語作用に先行すると言えるのだ。状況が混沌とした変貌を急速に遂げつつある今日、私が特に感覚の力やプレロジカルな領域に注目するのはそのためである。」(「混沌が意味するもの」(1968年)『映画の変革』所収、p.49)

         「私のビデオは、私の映画と同様、多くの場合不思議なもの、非日常的なもの、非合理的なもの、神秘的なもの、反現実的なもの、幻想的なもの、魔術的なものになる傾向が強い。私にとってビデオとは、たしかにプロセッシヴなフィードバック・メディアとして固有な価値を持つ一方、まったく個人的レベルでそういう内的世界へ自分を送りこむ魅惑的なメディアともなりつつある」(「ビデオ・アート展望」『幻視の美学』所収、p.217)

         上のように、いわゆる「政治の季節」以後の70年代には、松本の美学的な思想は、映像による言語以前、すなわち(ユング的な意味での集合)無意識的な内面感覚の表現へと傾倒していくことになった。



        C - 映像感覚という批評性

         ところで、松本の映像や理論を、単に歴史的な資料としてではなく、「映像による思考」という観点から、現代においてアクチュアルなものとして見ることができるだろうか。単なる「映像効果」として見るなら、私たちはそのような映像には、すでに日常にあふれるの映像の中で、慣れてしまっているかもしれない。そして私たちをめぐる政治やメディアなどの状況は、もはや現実性がなく、まるですべてが平板に映像・情報化してしまったかのようかもしれない。また、内面の隠れた無意識や情念などというものは、メディアや情報によって飼い馴らされたものになってしまったかもしれない。したがって、「ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一」という方法を、時代状況抜きに、そのまま私たちがアクチュアルに受取ることはできないかもしれない。

         にもかかわらず、その作品から感じられる、あの映像の純粋な強度は、いまだに私たちに衝撃をもたらすようなものではないだろうか。そして興味深いのは、明晰な理論家である松本が、つねに言語をこえた映像感覚を求めていたこと、そして「政治の季節」が終わった70年代の実験映像において、それがまさに開花したように思われることだ。このように、直接的な政治性を離れたときに、松本の映像の才能は、ますます感覚的となり、ますます鋭い輝きを増すように思われる。

         そしてその作品は、現代の私たちが常日頃目にする、「実験風」「アート風」のとげを抜かれた映像と違い、いまもなお私たちを挑発し、その想像力を刺激して、思考を強いるようなもののように思われないだろうか。そこに働いているのは、時代状況をこえて世界を問い続けるような、映像の「批評的な感覚」なのではないだろうか。

         「つまりそれは、言語作用の極限に、そのことの不可能性のあがきによって獲得されるのであり、そのような表現ほど、見るものの意識をダイナミックに高め、あとあとまで深い思考を誘発するのである。・・・私が、既成の言語系を超克するという観点で映像に執着するのも、それが知覚と想像力の間に広がる意識の生成地帯に、生きた言語の運動を引き起こすからであり、その力こそ、真の意味での映像表現の批評性である」(同上書、p.49)


        松本俊夫『映像の発見』(三一書房、1963年)
        松本俊夫『表現の世界』(三一書房、1967年)
        松本俊夫『映画の変革』(三一書房、1972年)
        松本俊夫『幻視の美学』(フィルムアート社、1976年)
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        レッスン 7 「50-60年代アメリカのアンダーグランド映画」
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          09.08-15.2009 講義レジュメ
          レッスン 7

          「50-60年代アメリカのアンダーグランド映画」



          A - その背景と新しい状況

          B - スタン・ブラッケージ『ドッグ・スター・マン』

          C - 個人と自由の表現



          A - その背景と新しい状況

           前回は、ヴィデオ・アートの誕生について、特にそれを代表するアーティストであるナム=ジュン・パイクをめぐって考えた。そこでは、電子的な映像であるヴィデオの持つ特性が、光学的な映像である映画との対比によって、考察された。そしてヴィデオによるアートの固有性が、パイクという天才の手を通して、まだはっきりと気付かれていないながらも直感的に形にされていることを見た。こうして、ヴィデオ・アートはその誕生のときから、すでにその後の発展の方向の見通しを与えられていたことが見られたと言えるだろう。

           今回は、ヴィデオ・アートがまさに生まれ出ようとしていた同じ時代に、欧米、特にアメリカにおける映画の領域で起こりつつあった、映像芸術の新しい運動に光を当ててみよう。それは、1950年代から60年代にかけて盛んとなる、アンダーグラウンドな実験映画のムーヴメントである。

           そのころ映画は、リュミエールによる誕生からおよそ60-70年、エイゼンシュテインやシュルレアリスムから30年以上経っていた。アメリカでは、第二次世界大戦とその勝利、そしてその後の資本主義の繁栄と、政治の保守・右傾化という状況があった。そして映画の環境は、商業的な娯楽として、ハリウッドの大資本にほとんど独占・吸収されてしまっていた。だがヨーロッパ、特にイタリアやフランス、そして日本などで、単なる商業的娯楽にとどまらない新しい映画が生まれていた。またごく細い流れではあったものの、シュルレアリスムの伝統を受け継いだ、実験的な映画作品も作られ続けていた。

           そんな中で、16mm や 8mm といったフォーマットのフィルムによって、個人による安価で簡易な映画の制作が可能になりつつあった。こうして映画資本によらずに、自分たちの手で自分たちの表現として映画を創作する動きが、次第に大きな動きとなって現れてきた。それはアメリカとヨーロッパ、日本などで、ほぼ同時多発的に発生し、やがてはたがいに交流をおこない、影響し合いながら発展していくことになった。今回は、特にそのアメリカにおける側面を見ていくことにしたい。

           アメリカでそのような動きは、「ニュー・アメリカン・シネマ」「アンダーグランド・シネマ」「インディペンデント・フィルム」などと呼ばれた。それは以前のさまざまな映画の表現・活動・経済などにおける「常識」をくつがえしていくことになる。中でもその運動の革新的な中心となるのは、「アヴァンギャルド映画」や「実験映画」と呼ばれる作品や活動を展開していった芸術家たちである。彼らは単に新しい方法による安価な「劇映画」を作ることには飽き足らず、より積極的に、過激に、映画のスタイルを変革していった。もはや文法も、物語も、主人公も必要なかった。彼らは既成の考え方ややり方にとらわれることなく、それぞれ独自の映画制作の方法を実験的に編み出していくことに没頭した。

           そしてそれは映画の作り方だけにはとどまらず、発表の仕方や、社会との関わり方なども新しく作り出していった。一つの画面による一般的な「上映」だけにはとどまらず、「拡張映画」と呼ばれる、複数のスクリーンによるマルチ上映や、音楽演奏やパフォーマンスとの融合イベントなど、まったく新しい発表のスタイルも生み出された。そしてまた、独立した芸術家の自主運営による配給や上映、展示、批評、保存などのシステムも作り上げられるに至った。

           このような運動の中で、もっとも重要な名前をいくつか挙げておこう。ニューヨークを中心とする東海岸の作家では、まずその作家としての活動にとどまらず、批評家やオーガナイザーとしてつねに状況をリードしてきた、アンダーグラウンド・シネマのゴッド・ファーザーと呼ばれる、リトアニア出身のジョナス・メカス(1922-)。それから、スタン・ブラッケージ(1933-2003)、ケン・ジェイコブス(1933-)、ジャック・スミス(1932-1989)、ポール・シャリッツ(1943-1993)、スタン・ヴァンダービーク(1927-1984)。またアンディ・ウォーホル(1928-1987)やスイス出身の写真家ロバート・フランク(1924-)も、そのムーヴメントに参加していた。そしてサンフランシスコを中心とする西海岸では、ケネス・アンガー(1927-)、ブルース・コナー(1933-2008)、ブルース・ベイリー(1931-)といった作家たちである。



          B - スタン・ブラッケージ『ドッグ・スター・マン』

           私たちは、ここでその運動の歴史的なプロセスを詳しく見ることはできない。だが、私たちに大きな勇気とインスピレーションを与えてくれるその活動の内容については、それぞれさまざまな参考文献をあたってみて欲しい。ここでは、その「映像によって感じ、考える」という visual philosophy 的な観点から、このムーヴメントを代表する一つの作品をとり挙げることにしよう。それは、スタン・ブラッケージの『ドッグ・スター・マン』である。

          参考上映:『ドッグ・スター・マン』スタン・ブラッケージ(映画、アメリカ、1961-1964年)



           さて、この作品を見た後で、それを「一般的」に解説することに、果たして何か意味があるだろうか? とにかく、ブラッケージ自身の声に耳を傾けてみよう。

           「ドラマという映画のいわゆる基本を切り捨てたとたんに、私は映画芸術家になったと言える。私の作品の素材である歴史、生活、その他のあらゆるものは、外から入ってきたのではなくて、私の内部から生まれて来るものだと、そのとき感じ始めたのだ。そういった内部から生まれて来るものの内容を、私はしっかり把握していたし、より個人的に自己中心的になるにつれて、より深遠なものに手が届き、すべての人間を包括する普遍的なものをつかむことができるようになった」(「愛とイメージの創造?スタン・ブラッケージ(インタヴュー)」、ポール・アダムス・シトニー編『アメリカの実験映画』p.85)

           「私は内的ヴィジョンに向かう旅の道具となり、私のすべての感性を通して、そのヴィジョンの外形を掴むのだ。この中で私がもっとも力を入れていることは、私のすべての感性を鋭敏なものとすることだ。その結果、映画がみな生の全領域から湧き上がってくるようになれば良い。そして、どんな瞬間にも必要上からのみ活動することだ。・・・こうして、まったく完成された表現形式を観客に提供するのである」(「リスポンド・ダンス」、同上書 p.97)

           つまりまず気をつけて欲しいのは、それは単にいわゆる「自己流」にやってみただけの「実験」なのではない、ということだ。それは「しっかりと把握」された、個人の内部からの「必要」から生まれる、「完成された表現」なのである。



          C - 個人の表現と自由

           つまりこの作品は明らかに、真摯な意味で「個人」の感性と意志と労働による、「個人」の表現であると言えるだろう。そしてそれを受取る観客の私たちもまた、それに対してそれぞれ個人としての感性と思考を働かせて真摯に向き合うことを求められているのではないだろうか。

           人間の「自由」というものが、外部の環境によって強制・抑圧されることなく、自らの内面的な必然性にしたがって生き、それを完全に表現するということだとするなら、このブラッケージの姿勢は、真摯な芸術家としての「自由」を代弁していると言えるだろう。少なくとも作家自身が、その自由を表明している以上は、その作品の相対的な評価とは関係なく、私たちはそこに映像という芸術活動における、「究極の自由」を目指す一つのあり方を見ることができると言えるのではないだろうか。いかなる呪縛からも解放された、純粋に自らの意志による、完全な自由としての映像。それは、社会のさまざまな価値観による相対的な評価を離れて、芸術という「絶対的に自由」なものを求める志向である。

           ひるがえって、そのようなブラッケージの映像に向かい合うとき、そこでは観客である私たち一人一人の、見る姿勢が厳しく問われているとも言える。その作品を「深く」見ることで、ブラッケージが確信する、その「すべての人間を包括する普遍的なもの」へと近づこうとするか、どうか。それは私たちに向けて「賭けられて」いるのである。そこには「他者」である観客へ向かって自分の信じるものを投げかけ、そこに起きるかもしれない共感に賭けるという、ほとんど愛や信仰に近いものが働いているようにも思われる。

           それに応えるべきか、それとも目をそらしてしまえば良いのか。ここで目をそらすことも、もちろんそれは私たちの「自由」だ、と言うかもしれない。「絶対的な自由」を求める芸術からの呼びかけを、拒絶するという「自由」。だがそのような「見ない自由」、「感じない自由」、「考えない自由」、それは本当に自由なのだろうか? それを「自由」という言葉で呼んだとしても、それはブラッケージの自由に対して、果たして本当の自由と言えるだろうか?

           最後に、ジョナス・メカスを中心として起草された、『ニュー・アメリカン・シネマのための第一宣言』(1961)の一部を挙げておこう。

           「芸術と人生の嘘っぱちにはもう飽き飽きした。他の諸国の若い仲間たちと同じように、新しい映画を創造するばかりではなく、われわれは新しい人間を目指すのだ。芸術作品と同じくらい、われわれは新しい人生の創造に賭ける。ピカピカできれいに磨き上げられているが中身の方は嘘っぱちだらけといったニセモノの映画はもうまっぴらだ。たとえ荒削りでもいい。素顔の生きた映画の方がはるかにマシだ。観客にバラ色の夢を与える映画でなくてもいい。われわれの欲しいのは血の色をした映画なのだ」(同上書 p.281)



          参考文献:
          ポール・アダムス・シトニー『アメリカの実験映画』(石崎浩一郎訳、フィルムアート社、1972年)
          シェルドン・レナン『アンダーグラウンド映画』(波多野哲郎訳、三一書房、1969年) 
          ジョナス・メカス『メカスの映画日記』(飯村昭子訳、フィルムアート社、1974年)
          飯村隆彦『芸術と非芸術の間』(三一書房、1970年)
          松本俊夫『表現の世界』(三一書房、1967年)
          松本俊夫『幻視の美学』(フィルムアート社、1976年)
          "A History of Video Art" by C. Meigh-Andrews, Berg, 2006
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          レッスン 6 「ナム=ジュン・パイク―ヴィデオ・アートの誕生」
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            07.14.2009 講義レジュメ
            レッスン 6

            「ナム=ジュン・パイク―ヴィデオ・アートの誕生」



            A - ヴィデオ・アートの父

            B - ドイツ―NY、二つの先駆的業績

            C - 偶然性、表現効果、情報操作と抵抗、日常性

            D - 個の視線、アクチュアリティの芸術

            E - 現代への問いかけとしてのパイク



            A - ヴィデオ・アートの父


             前二回、私たちは映画が、単なる新しいメディアの技術として誕生した後に、芸術として成熟する瞬間にあらわれた二つの動き、モンタージュとシュルレアリスムについて見た。今回は映画からさらに後、その次の映像メディアとしての電子映像が、芸術として生まれ変わる瞬間について見てみることにしよう。つまり、ヴィデオ・アートの誕生である。

             ヴィデオ・アートの誕生は、つねに一人の偉大なアーティストの名前と結びつけて語られる。韓国人アーティスト、ナム=ジュン・パイクである。その50年にわたるアーティスト人生の中での、活動スタイルや思想の変遷、そして「神話的」な名声の確立などは、つねに議論の的となり、多くの毀誉褒貶にさらされてきた。1950年代ドイツにて、ジョン・ケージの強い影響を受けた前衛音楽家としてのスタート、アヴァンギャルドな反芸術運動「フルクサス」への参加、60年代のヴィデオ・アートの発明、そして70-80年代にはヴィデオ・アートを確立するためのさまざまな活動展開、特に「ヴィデオ・シンセサイザー」や衛星放送、晩年にはレーザー・ビームなどを用いた作品など、技術と芸術のコラボレーションの先駆的な仕事の数々。かつては「もっとも悪名高いピアニスト」の称号を持っていたパイクは、80年代中期以降にはアメリカの国家=資本主義的なメディア・ユートピア政策の賛美者となってしまったかにも思われる。このようにパイクは、破壊的な反逆者、先駆的な創造者、そして制度の代弁者と、さまざまな顔を持つ。

             だがいずれにせよパイクという天才が、20世紀を代表する芸術家の一人であることは間違いがないだろう。そして彼が数々の作品や言葉によって示してみせた「ヴィデオの芸術」というコンセプトのは、いまだに大きな問いとなって私たちの前に立ちはだかっている。パイク亡き後も、メディアと映像は私たちの把握を超えて膨張し、一方でヴィデオ・アートとは何なのか、どこへ向かうのか、私たちはいまだ知らない。ヴィデオ・アートは、インターネットとデジタル映像の時代にも、古くなったどころか、いまだほとんど出現してもいないように思われる。ヴィデオは芸術として、どのように現れなければならないのか。その問いはますます重要さを増しつつあり、これから私たちが、考え抜いていかなければならないものに思われる。そのようなときにこそ、混沌からヴィデオ・アートを生み出したパイクの声を、真摯に聞きとらなければならないのかもしれない。

            ナム=ジュン・パイク





            B - ドイツ―NY、二つの先駆的業績

             1963年3月、ドイツ・ヴッパータールのパルナス画廊で開催されたパイクの個展「音楽―電子テレビジョンの展覧会」で、磁石で変調された13台のモニターが展示された。モニターはすべて同じチャンネルのTV放送にチューニングされており、それらはパイクが中古のモニターを改造して作ったものだった。ケージの「プリペアド・ピアノ」にならって「プリペアド TV」と名付けられたその作品が、世界で初めてのヴィデオ・アートとされている。

             1965年10月、ソニーが世界初の携帯用ヴィデオ・カメラ「ポータパック CV-2000」を発売した。パイクは NY で早速それを購入、その日に偶然居合わせたローマ法王パウロ6世の NY 訪問を撮影、その夜にダウンタウンのカフェ・ア・ゴー・ゴーでの「エレクトロニック・ビデオ・レコーダー」にて、同イベントを報道する番組と並べて上映をおこなったとされている。

             この二つの事実が、何よりもパイクに「ヴィデオ・アートの創始者」としての名声を与える要因となっている。その真偽にはいくらか怪しいところもあると言われているが、単に新しい技術を他人に先んじて試みたことがパイクの業績なのではない。パイクによるこの二つの作品・活動は、パイクがその初めから、ヴィデオの大きな可能性の本質を、鋭敏にとらえていたことをしめしているのではないだろうか。次にそれを考えてみよう。

            参考上映:パイク初期のヴィデオ・アート作品

            マグネット TV(1965)



            グローバル・グルーヴ(1973)





            C - 偶然性、表現効果、情報操作と抵抗、日常性

             まず、「プリペアド TV」について、四つの視点からとらえてみよう。

             第一に、モニターにはその時に受信された TV 番組が流されていた、ということ。つまりそれは作家によってコントロールされない、さまざまな要因へと開放された、偶然性による作品である。したがって、それはギャラリーに「彫刻」として展示されてはいても、作品として定着不可能な、流動的なものである。それはパイクが明確にケージの「偶然性の音楽」から受け継いだ方法だ。そしてそれは、ヴィデオ・アートが時間の芸術として音楽を引き継いでおり、固定化された「美術作品」の枠を壊すものであることを示していたと言えるだろう。

             第二に、映像が電子的に変調された効果のヴァリエーションが展示された、ということ。つまりそれは映像に、電子的な操作によってさまざまな表現的な効果が与えられることを示した。このヴィデオの表現的な側面は、その後「パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー」などで追求されていく。パイクが追求したこの電子的な映像効果は、現代のコンピュータを用いたエフェクトへと発展していく動きの源流である。パイクはそのような電子映像の発展の方向を、すでに最初の展示で明確に示していたのではないだろうか。

             第三に、TVというマス・メディアを流用して、そこに変調をほどこしていた、ということ。つまりそれはマスメディアによる一方的な情報の押し付けに対して、受け手側が独自の解釈によってその情報に抵抗する可能性を象徴的に示したと言うことができるだろう。また同時にそれは、メディア上の映像がつねに、第三者の介入や干渉によって歪曲されているということを、パロディとして示したと見ることもできるだろう。つまりそこには、ヴィデオが政治的な情報操作とそれに対する抵抗という、対立関係を持つということがあらわされているのである。

             第四に、それはモニターという映像の「物体性」を白日のもとにさらした、ということ。つまりそこでは電子の映像が、映画の映像とは異なり、日常的な空間の中に存在する物体としての側面を持つことを見せている。ヴィデオはこのように日常的な物として、私たちの生活の現場の中に入り込んでくるものなのである。そして同時にそれは高度な技術の結晶として、触れがたいブラックボックスでもあるのだ。



            D - 個の視線、アクチュアリティの芸術

             次に、「ローマ法王パウロ6世のNY訪問」について。

             第一に、機材調達、撮影から上映まで、すべてを個人の手によっておこなったものであったということ。それはマスメディアによって資本主義的・組織的・制度的に企画され、コントロールされた映像に対抗して、個人やマイノリティの視線によるオルタナティヴな映像の可能性を示すものであった。

             第二に、当日買った機材で撮影され、そのまま上映されたという即時性。つまりそれはヴィデオの簡便性を生かしたものであり、個人のヴィデオによる情報の伝達が、時にはマスメディアと同じか、もっとも迅速におこなわれ得ることを示している。こうしたヴィデオの持つ特性は、絵画的な芸術や念入りに企画されたマスメディアや映画と違って、観客にダイレクトに訴えるライヴ的なものであり、リアルな時事性とも深く関わるのである。したがってヴィデオの魅力は、権威的な従来の「美」ではなく、もっと政治的なアクチュアリティに根ざした、新しい芸術のスタイルを可能性として開くのである。



            E - 現代への問いかけとしてのパイク

             今日、私たちは45年前のパイクの時代から比べると、はるかに発展した映像とメディアの環境に生きているように思われる。携帯電話でヴィデオが撮影でき、見ることもでき、パソコンでは簡単にCGや映像効果を作り出すことができる。そしてインターネットでは YouTube などによって、手軽に映像を大量の人々に向けて発信することが可能だ。私たちの日々の映像体験は、パイクの提示した映像やその環境についてのイメージを、はるかに超えてしまっているようにも思われる。

             だが、はたしてそうだろうか?パイクの仕事は、ただ昔日のパイオニアとしてだけ意味があるのに過ぎないのだろうか?その仕事は今見ると、古びた技術と表現の残骸でしかないと言えるのか?

             もしパイクを、単に技術的・表現的な面からだけとらえるならば、そのように見えるかもしれない。だがそのような見方では、まったくパイクの本質が見えてはいないだろう。なぜならパイクの持つ「問い」へのまなざしが欠けているからである。実際、パイクは映像の表面的な効果の面白さには、ほとんど興味を持っていなかったようにさえ見えるのだ。(それでも、その軽妙なセンスは抜群であるが。)

             パイクによって示された「ヴィデオ・アート」とは、何だったのか。「問い」へのまなざしを持って見るならば、パイクがおこなおうとしてきたことが見えてくる。私たちはこの社会において、メディアや映像に取り囲まれ、それによって無意識に支配されている。そのように私たちを支配する道具と化しているメディアや映像を、「問い」の方法として取り返す試みが、パイクがおこなってきたことなのではないか。つまりメディアや映像という、制度や資本による支配の道具を、逆に自由のために奪い取ること。

             そしてまたパイクが、その問いの鋭さを失ったとき、制度はこの反逆者を取り込み、彼の名声は皮肉にも確立された。もしかしたらそれもさらに大きな制度を逆に利用するための、彼の作戦だったのだろうか?この偉大な先達がこの世を去った今、それはわからない。そこに新しい抵抗と創造を見るか、それともあきらめと順応を見るか?いずれにせよ、パイクという存在は、これからもずっと私たちの前に大きな問いとなって現れてくるだろう。

             「コラージュ技法が油彩に取って代わったように、ブラウン管がキャンヴァスに取って代わるだろう。今日アーティストが筆や、ヴァイオリンや、ガラクタで作品を作るように、いつの日かコンデンサーや、抵抗器や、半導体で作品を作るようになるだろう。」("A History of Video Art")

             「TV は私たちの生活すべてを攻撃してきた。これからは反撃だ。」("Video Art, A Guided Tour")



            参考文献:
            『情報社会を読むクリティカル・ワーズ』(田畑暁生編、フィルムアート社、2004年)
            『ナム=ジュン・パイク、タイム・コラージュ』(イッシ・プレス、1984年) 
            『ナム=ジュン・パイク展 ヴィデオ・アートを中心に』(東京都美術館カタログ、1984年)
            "The Worlds of Nam June Paik" by J. G. Hanhardt, Guggenheim Museum, 2000
            "A History of Video Art" by C. Meigh-Andrews, Berg, 2006
            "Illuminating Video, An Essential Guide to Video Art", by D. Hall & S. J. Fifer, Apperture/Bavc, 1990
            "Video Art, A Guided Tour" by Catherine Elwes, I. B. Tauris, 2005
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