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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
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レッスン 8 「日本の実験映像(1)- 松本俊夫 - 状況と無意識」
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    09.29-10.06.2009 講義レジュメ
    レッスン 8

    日本の実験映像(1)- 松本俊夫 - 状況と無意識」




    A - ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一

    B - 言語以前の感覚の追求へ

    C - 映像感覚という批評性



    A - ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一

     前回は、1950 - 60年代のアメリカにおけるアンダーグラウンド映画、特にスタン・ブラッケージの作品をめぐって考えることをおこなった。

     今回は、それとほぼ同時代から、日本における実験映像をリードしてきた作家、松本俊夫の作品と思想について考えていきたい。

     松本は1932年生まれ、パイクやブラッケージなどと同世代である。彼は1950年代なかばからPR映画やドキュメンタリー映画の制作とともに、映画評論の活動を始める。60年代にはその鋭く批判的な理論と、前衛的な映画の制作・活動によって、大島渚、寺山修司らとともに、日本の映画芸術の美学をリードする存在となった。『薔薇の葬列』(1969年)、『修羅』(1971年)などの長編劇映画と、70年大阪万博への参加を経て、70年代以降はその活動の舞台をヴィデオ・アートや実験映画、そして教育へと移していく。

     ではさっそく、松本の映像の思想について見ていくことにしたい。まず彼の映像の美学的な方法論に大きな影響を及ぼした作品を見ることから始めよう。

    参考上映:『ゲルニカ』アラン・レネ(映画、フランス、1949年)

     この作品について松本は次のように言う。

     「アラン・レネはピカソの『ゲルニカ』を直接の対象としながら、少なくともそれ自体の強みにもたれかかろうとはしていない。ひとつひとつのショットに写されたものは、むろんどれをとってもピカソの絵そのものである。しかしそれはあくまでも「レネの見たピカソ」、あるいは「ピカソを見るレネ」であって、言うならばピカソそのものではなくなっている。
     要するに、ここではすでに素朴な意味での記録性が否定されている。外側の世界にレンズを向けながら、その焦点は、まぎれもなくレネ自身の内側の世界に合わされているからである。彼はピカソを「見せよう」としたのではなく、「見よう」としたのであり、彼の記録しようとしたものは、彼自身の見たヴィジョンそのものに他ならない。」(「前衛記録映画論」『映像の発見』所収、p.49)

     「ドキュメントという言葉の新しい今日的な意味は、事実を事実としてそのアクチュアルな物質的現実を、それがまさに同時にそれと対応する内部現実の克明な記録であるような仕方で記録すること、外部の記録と内部の記録を、外部の記録を支配的な契機として、その二つの世界を弁証法的に統一することである。そして、その可能性の手がかりを、私は一般的にはほとんど問題にされていない(!)アラン・レネという作家の、わずか十分ばかりの作品『ゲルニカ』の中に見るのである。ここには、疑いもなくドキュメンタリーがアヴァンギャルドと統一される地点がある」(同上書 p.56)

     一方で松本は、シュルレアリスム、特にブニュエルの作品について次のように言う。

     「映像は、この目に見えない『もうひとつの現実』を、そのまま直接視覚化するというすぐれた能力を持っている。それは、いかに飛躍したイメージをも『作り』出すことができるのである。そのような映像は、ものの見方感じ方の常識性を『理屈抜き』に打ちこわし、人々の想像力を無限に解放してやまない」(「映画芸術の現代的視座」同上書、p.17)

     「『隠された世界』ということを、単に心の内側の問題に限られたものとして理解するとすれば、それは一面的であり、むしろ転倒している。なぜなら内部の隠された歪みは、最終的にはすべて外部の隠された歪みによって規定され、それを反映したものに他ならないからである。・・・表面上は安定と平和として現象しながら、刻々と亀裂を深めていく政治的危機。企業意識、改良主義など、数々の欺瞞と幻想。徹底して収奪されながら収奪するものに頼り、これを支持する牢固とした保守的庶民意識。労働戦線の奇妙な分裂。これら総体としての外部現実の実相は、その構造の本質に迫れば迫るほど、まさに不気味なものとして立ち現れてくるのだ」(「隠された世界の記録」同上書、p.91)

     このように、松本の映像とその方法論は、自身による明晰な理論的思考に裏付けされている。それは簡単に言うならば、映像の持つ二つの性格、「記録」性と「表現」性についてである。つまりまず第一に、外部を単に事実として記録するのではなく、主体的にそれと関わることによって、外部の記録を外部だけでなく内面をも写すようなものとすること(ドキュメンタリー→アヴァンギャルド)。そして第二に、こんどは逆に、内面の表現を外部の状況の反映として、もうひとつの無意識的な隠された現実として映し出すこと(アヴァンギャルド→ドキュメンタリー)。こうして、この外部の状況と内面の無意識の両者を、記録と表現という二つの方法の統一によって、統合的に映像化することである。それはすなわち、「ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一」である。

     そしてもちろん忘れてはならないのは、それが特に60年代的な政治状況、二つの安保闘争に挟まれた、左翼的な社会変革の機運の中で構想され、また実践されているということである。

    参考上映:『つぶれかかった右眼のために』松本俊夫(映画、日本、1968年)





    B - 言語以前の感覚の追求へ

     その後、松本は日本で最初のヴィデオ・アート作品とも言われる『マグネチック・スクランブル』(1968年、『薔薇の葬列』内で使用)などを制作し、状況が70年の革命運動の挫折、その後の失望の時代へと進む中で、実験映像へといっそう深く踏み込んでいくことになる。そこでは、直接的な政治性はなりをひそめ、さまざまなテクノロジーを駆使しながらも、より映像的な感覚そのものを、ダイレクトに開拓するような作品となっていく。

    参考上映:『メタスタシス』松本俊夫(ヴィデオ、日本、1971年)

            

    『モナ・リザ』(ヴィデオ、日本、1973年)



    『アートマン』(映画、日本、1975年)



     「私たちは何らかの新しい体験に直面したとき、しばしばそれをうまく言葉で表現することができない。・・・感覚作用は言語作用に先行すると言えるのだ。状況が混沌とした変貌を急速に遂げつつある今日、私が特に感覚の力やプレロジカルな領域に注目するのはそのためである。」(「混沌が意味するもの」(1968年)『映画の変革』所収、p.49)

     「私のビデオは、私の映画と同様、多くの場合不思議なもの、非日常的なもの、非合理的なもの、神秘的なもの、反現実的なもの、幻想的なもの、魔術的なものになる傾向が強い。私にとってビデオとは、たしかにプロセッシヴなフィードバック・メディアとして固有な価値を持つ一方、まったく個人的レベルでそういう内的世界へ自分を送りこむ魅惑的なメディアともなりつつある」(「ビデオ・アート展望」『幻視の美学』所収、p.217)

     上のように、いわゆる「政治の季節」以後の70年代には、松本の美学的な思想は、映像による言語以前、すなわち(ユング的な意味での集合)無意識的な内面感覚の表現へと傾倒していくことになった。



    C - 映像感覚という批評性

     ところで、松本の映像や理論を、単に歴史的な資料としてではなく、「映像による思考」という観点から、現代においてアクチュアルなものとして見ることができるだろうか。単なる「映像効果」として見るなら、私たちはそのような映像には、すでに日常にあふれるの映像の中で、慣れてしまっているかもしれない。そして私たちをめぐる政治やメディアなどの状況は、もはや現実性がなく、まるですべてが平板に映像・情報化してしまったかのようかもしれない。また、内面の隠れた無意識や情念などというものは、メディアや情報によって飼い馴らされたものになってしまったかもしれない。したがって、「ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統一」という方法を、時代状況抜きに、そのまま私たちがアクチュアルに受取ることはできないかもしれない。

     にもかかわらず、その作品から感じられる、あの映像の純粋な強度は、いまだに私たちに衝撃をもたらすようなものではないだろうか。そして興味深いのは、明晰な理論家である松本が、つねに言語をこえた映像感覚を求めていたこと、そして「政治の季節」が終わった70年代の実験映像において、それがまさに開花したように思われることだ。このように、直接的な政治性を離れたときに、松本の映像の才能は、ますます感覚的となり、ますます鋭い輝きを増すように思われる。

     そしてその作品は、現代の私たちが常日頃目にする、「実験風」「アート風」のとげを抜かれた映像と違い、いまもなお私たちを挑発し、その想像力を刺激して、思考を強いるようなもののように思われないだろうか。そこに働いているのは、時代状況をこえて世界を問い続けるような、映像の「批評的な感覚」なのではないだろうか。

     「つまりそれは、言語作用の極限に、そのことの不可能性のあがきによって獲得されるのであり、そのような表現ほど、見るものの意識をダイナミックに高め、あとあとまで深い思考を誘発するのである。・・・私が、既成の言語系を超克するという観点で映像に執着するのも、それが知覚と想像力の間に広がる意識の生成地帯に、生きた言語の運動を引き起こすからであり、その力こそ、真の意味での映像表現の批評性である」(同上書、p.49)


    松本俊夫『映像の発見』(三一書房、1963年)
    松本俊夫『表現の世界』(三一書房、1967年)
    松本俊夫『映画の変革』(三一書房、1972年)
    松本俊夫『幻視の美学』(フィルムアート社、1976年)
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