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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
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レッスン 5 「シュルレアリスム―生の根源へ」
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    06.30.2009 講義レジュメ
    レッスン 5

    「シュルレアリスム―生の根源へ」



    A - シュルレアリスムという方法

    B - ブニュエル、非娯楽的な映像

    C - 無意識―映像による因習・道徳の破壊

    D - ヴィゴ、もう一つの詩的な抵抗



    A - シュルレアリスムという方法


     前回、私たちは映像によって思考するということの、過去の偉大な実践の例として、エイゼンシュテインによるモンタージュというテーマについて考えた。ただしここで注意したいのは、エイゼンシュテインのモンタージュが私たちに開いてくれる問いは、単に映画の初期、過去の映像についての「古くさい」ものとしてとらえてはならないということだろう。それどころか、80年以上立ってもなお、その問いはまだほとんど真剣に考えられてもいないと言えるかもしれない。それは、映画も理論も映画史の「古典」ではあるが、古典というものが本質的にはいつもそうであるように、現代からの光を当てることによって、汲み尽くすことのできない新しい問いを、常に私たちに問いかけてくる。だから私たちはエイゼンシュテインのモンタージュに対して、現在の私たち自身への問題提起として、「いま・ここ」において、直接に向き合わなければならないだろう。

     これから私たちが見る「シュルレアリスム」というテーマも、やはり芸術史、映画史上の出来事の一つではある。だが、それを私たちは単に過去の歴史として学ぼうとするのではない。その映像は確かに私たちが体験してきた映像の、一つの起源である。そしてその起源と真摯に向き合おうとするならば、私たちはそこに映像という創造の、驚くべき一つの本質を見出すことになるだろう。そのような創造性は、映像が見かけ上は発達している現代では、むしろすり切れて、見えにくくなってしまっているのではないだろうか。だが、それがまさに誕生した瞬間に立ち返ることで、私たちは映像の持つ、深い衝撃、その感覚的な思想を、いっそう明快に見ることができるだろう。

     1920年代ヨーロッパに起こった文学・芸術運動であるシュルレアリスムは、さまざまな形で映画に関心を抱き、また直接的にいくつかの実験的な映画作品を生み出した。そしてそのようないわゆる「シュルレアリスム映画」ではなくても、その美学はさまざまな映像に、それが芸術であれ、あるいは商業的なものであれ、多大な影響を及ぼしている。その影響はあまりにも浸透しているため、現在では、ほとんど意識されなくなってしまっているほどであると言えるかもしれない。
     まず、基本的な概念の紹介をしておこう。シュルレアリスムとは何か。運動をリードしたフランスの詩人、アンドレ・ブルトンによれば、以下である。

     「心の純粋な自動現象であって、それによって人が、口で述べようと筆記によろうと、また他のどんな方法によるとを問わず、思考の真の働きを表現しうるものである。それはまた、理性によるいかなる監督をも受けず、審美的な、あるいは倫理的な心づかいをまったく離れておこなわれる思考の口述でもある。」

     「シュールレアリスムは、これまで顧みられなかったある種の連想形式の、すぐれた実在に対する信頼に根拠を置き、また夢の全能と、思考の非打算的な活動に対する信頼に根拠を置くものである。シュールレアリスムはまた、他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破壊し、それに代わって、人生の諸問題を解決することを目的とするのである。」(「シュルレアリスム宣言」(1924)『世界の詩論』p.277)

     つまり簡単に言うならば、夢、狂気、無意識といった人間の精神の領域を表現することを目指し、従来の日常や因習、制度にとらわれた現実感覚を超えて、「超現実」を見出すという芸術の方法論である。ここから、夢、狂気、無意識的なヴィジョンを探求するものとしての映画、というアプローチが生まれた。そしてそのために、詩における「自動筆記」にならった、自由な連想によるイメージの構築や、夢に依拠した日常的な物語の解体、幻想的なイメージの演出などが、映画において試みられた。



    B - ブニュエル、非娯楽的な映像

     2人のスペイン人芸術家、ルイス・ブニュエルとサルヴァドール・ダリによる『アンダルシアの犬』(1929)や『黄金時代』(1930)は、そのシュルレアリスム的な感性と思想が、映像による実践として、もっとも直接的、明快に表現され、もっともその挑発的な効果を発揮した映像作品ということができるだろう。その後ダリは映像から離れていくが、ブニュエルはシュルレアリスムの精神・美学を体現した、もっとも重要な映画作家として、その後も50年以上にわたって創作活動をおこなっていくことになる。


    上映:『アンダルシアの犬』ブニュエル & ダリ(映画、フランス、1929年)




    ブニュエル




    ダリ




     有名な、衝撃的ファーストシーンから始まるこの映画について、ギリシア出身の映画理論家アド・キルーは次のように言っている。

     「最初のシークエンスから、この映画の根源的にスキャンダラスな意味を強調することが大切だった。この映画は、あらゆる規範に反して、一般観客がおのれのヴィジョンに耐えられないように演出されている、映画史上最初の映画なのである。『アンダルシアの犬』は、非娯楽的な最初の映画だ」(『映画とシュルレアリスム』p.316)

     この映画の初上映時、予期しなかった好評を批判して、ブニュエルは言う。

     「(この作品は)結局のところ、犯罪への絶望的な、熱烈な呼びかけに過ぎない」(「アンダルシアの犬:脚本」(1929)『ルイス・ブニュエル著作集成』p.230)




    C - 無意識―映像による因習・道徳の破壊


     次にブニュエルの言葉によりながら、シュルレアリスムの映像的な感性と思考をめぐって、見ていくことにしよう。

     「映画は、それを扱う者が自由な精神であると、すばらしいが危険な武器になる。それは夢、感情、本能の世界を表現するための、最高の道具なのである。映画の映像の産出メカニズムは、夢の状態にある脳の機能をもっともよく模倣する・・・映像は、夢の中と同じように、ディゾルブやフェードインを通じて、現れたり消えたりする。時間と空間は融通性を持ち、意のままに収縮し、拡張する。時間の順序や相対的な継続時間は、もはや現実に対応することはない・・・映画とは、意識下の生を表現するために、自らを発明したように思える。この生はごく深く、その根元からポエジーに入り込むのだ。」(「ポエジーの道具としての映画」(1958)『著作集成』p.196-197)

     「私は夢の要素の一部を引き寄せたとは言え、この映画(『アンダルシアの犬』)はリアリズムのそれである。他の映画との基本的な違いは、衝動によって行動を起こす登場人物たちの役割であり、それはポエジーの源である不合理なものの根源と混ざりあう・・・映画は人間の無意識の感覚に向かっており、だから普遍的な価値を持つ」(「ルイス・ブニュエル自叙伝」(1938)『著作集成』p.339)

     「観客に具体的な人物や事物を提示することで、かれらに直接的に働きかけることによって、そして沈黙、暗闇を使って、その心的な生活環境と呼ばれるものから引き離すことによって、映画は他のいかなる人間表現とも異なる仕方で、かれらをとりこにする力がある。しかし、映画にはまた他のどれとも異なり、かれらを麻痺させる力もある。不幸なことに、現在の映画の大部分はそのような使命しか持たないように見える。スクリーンは、映画がその中でころげ回る道徳的な空虚を陳列している」(「ポエジーの道具としての映画」『著作集成』p.194)

     つまり、シュルレアリスムの映像の方法論は、単に「道徳的」な物語を「空虚」に物語ることでもなく、「心地よい作り話」の中に溺れることでもない。そのような映像は「観る者を麻痺させる」。そうではなくて、私たちが普段はそれに対して心あるいは肉体の眼を閉ざしているような、人間の精神の奥底に潜む、狂気じみたもの、残酷なもの、おぞましいもの、不条理なものなどを、「理性によるいかなる監督をも受けず、審美的な、あるいは倫理的な心づかいをまったく離れて」あらわにすることなのである。それは、新しい現実として、つまり「超現実」として明るみに出されるのだ。

     そしてそれは、こちらが善(美)で、こちらが悪(醜)・・・といった、単純な善悪(美醜)の問題の偽善を暴き、私たちの生ぬるい倫理的、美学的な判断を不能に陥らせるようなものである。そのような衝撃を与えることで、映像は私たちにすべてをもう一度感じ、考え直すことを求めるのだ。眼を背けたくなる悪夢のような映像に、私たちが惹かれてしまうのはなぜだろうか。たとえ意識でそれを抑制しても、夢に見たり、そのような映像が無意識をとらえて離さないのはなぜだろうか。それはそのようなヴィジョンこそが、実は私たちが日常では気付かない、見ようとしない「現実」でもあるからではないだろうか。そしてむしろ、情報や映像を日々与えられている、この緩んだ日常の方が、むしろ空しい盲目的な夢のような状態なのではないだろうか。

     このような映像と向き合うとき、私たちは、自分の道徳的・審美的な感覚を構成している、さまざまな社会的なアイデンティティやイデオロギー(民族、年齢、ジェンダー、貧富、教養、信仰など)を離れて、無意識の感覚に突き戻される。その瞬間、善悪や美醜を判断するための、あらゆるアイデンティティやイデオロギーのしがらみが吹き飛ばされてしまう。そして一人の人間として、その映像を見、感じなければならない。このような従来の感覚を破壊して、純粋な一人の人間としての感覚を、ふたたび新しく回復させること。そして人間の生の「深い根源にあるポエジー」を明るみに出すこと。このような感覚の解放が、ブニュエルが目指していたことなのではないだろうか。そしてここにブニュエルの、単なる「悪意」ではない、非常に熾烈な visual philosophy の闘いの仕方を見ることができるのではないだろうか。



    D - ヴィゴ、もう一つの詩的な抵抗

     次に私たちは、ブニュエルを離れて、シュルレアリスムの影響が生み出した、もう一つの映像を見ることにしたい。夭折した伝説的な映画作家ヴィゴの映画には、やはり少年期や夢の姿を借りて、因習的な現実に対する美しい抵抗のイメージが描かれている。


    上映:『操行ゼロ』ジャン・ヴィゴ(映画、フランス、1932年)



    ヴィゴ




     「『操行ゼロ』は、子供たちの詩的反抗が表現されている唯一の映画である。映画がわれわれの制度を罵倒しているというので検閲が乗り出し、現代の蒙昧さのうちにあってすばらしい光を放つ『操行ゼロ』は上映禁止となった」(『映画とシュルレアリスム』p.249)

     ヴィゴの映画は、ブニュエルと同じく、やはりその「感性による抵抗」のために危険視されたのだろうか。ここに、ヴィゴによるブニュエルへの、同志的なまなざしを紹介しておこう。

     「私たちがスクリーンの上の剃刀で真二つに切り裂かれる女の眼の映像に耐えきれないとすれば、地上のだらけた人間たちが犯したさまざまの怪物性を私たちに受け入れさせる私たちの無気力こそが、重大な試練にさらされているのである。それは、この映画では言うなれば習慣の眼とは別の、もう一つの眼で見ることが必要であることを確信させる」(ジャン・ヴィゴ「もう一つの眼で見る」(1930)『ブニュエル』p.221)

     現代、安易な「シュール」な映像は、単なるエンターテインメントの一部として、私たちのまわりに氾濫している。それは皮肉にも、「私たちの無気力」を増長させるために、つまりものを「感じない、考えない」ために使われているように思われる。では、映像のシュルレアリスムの方法論が持っていた、生の根源にまで降り立って、感性によって思考させる力は、すでに失われてしまったのだろうか?

     最後に、ブニュエル最晩年の、私たちへの警告。

     「この世界は破滅している。それは人口爆発、テクノロジー、科学、情報によって破壊されるだろう・・・情報の過剰は現代人の良心へ、重大な悪影響を及ぼす。法王が死ぬと、国家元首が暗殺されると、テレビがそこにいる。人間がいたるところに現れて、一体何の役に立つというのか?今日の人間は中世にはできたように、自分自身と向き合うことがまったくない・・・最悪のことが起きてわれわれは遂に根こそぎにされるだろう。『アンダルシアの犬』以降、世界は不条理の方へ進んでしまったからである。変わっていないのは私だけである」(「ペシミズム」(1980)『著作集成』p.353-354)



    参考文献:
    『ルイス・ブニュエル著作集成』(杉浦勉訳、思潮社、2006年)
    アド・キルー『映画とシュルレアリスム』(飯島耕一訳、美術出版社、1968年)
    アド・キルー『ブニュエル』(種村季弘訳、三一書房、1970年)
    『世界の詩論』(「ユリイカ臨時増刊」、青土社、1979年)
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