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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
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レッスン 4 「エイゼンシュテインのモンタージュ」
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    06.16.2009 講義レジュメ
    レッスン 4

    「エイゼンシュテインのモンタージュ」



    A - visual philosophy としてのモンタージュ

    B - アトラクションのモンタージュ:すべては葛藤・衝突である

    C - オーヴァートーン・モンタージュ:映像を感じる

    D - 知的映画:映像による思想/思想による映像



    A - visual philosophy としてのモンタージュ


     私たちは前三回、三人の思想家をピックアップして、それぞれ映像に関連する思想的なテーマを一つずつ中心にして、映像について考えることをおこなった。そのテーマはいずれも、このメディア社会の映像について考えるために、まずもっとも基本的な視野を与えてくれるものである。また、そのテーマに沿ったいくつかの映像作品を見て、具体的に考えるための導きの糸とした。こうして、「visual philosophy =映像によって考える」ための、一番基本的なウォーミング・アップはできたのではないだろうか。

     ところでこれまでは、どちらかと言えば思想的なテキストを中心にして考え、その都度参考として映像を見てきたのだが、そこで大事なことは、映像を単に思想の翻訳と見たり、逆に思想を単に映像の解釈と考えたりしてはならないということだろう。ここでもう一度確認しておきたいのだが、私たちの試みのコンセプトである visual philosophy は、映像そのものを新しい哲学として考え、作り出そうとすることである。したがって、思想的なテキストを助けとしながらも、そこで浮かび上がってきたテーマや問題を、映像として感じることで、自らの感性による体験としてとらえ、考えていくということを志したい。

     今回は、映画の歴史において、もっとも重要な芸術家の一人であり、また同時に映像の思想の歴史においても、もっとも重要な思想家の一人である、セルゲイ・エイゼンシュテインをめぐって考えていくことにしよう。エイゼンシュテインにおいて中心となるテーゼは、「モンタージュ」である。モンタージュは、エイゼンシュテインにあっては、映像=芸術の方法論であると同時に、思想的な概念でもあり、また広くは社会全体を考え、改革し、創造するための原理でもあるような広がりを持つ言葉である。エイゼンシュテインは、一人の人物の中で、映像芸術の実践と思想の営みが完全に一つのものとして展開されている、貴重な例である。彼こそは、映像の歴史において、「映像による思想」を探求した、もっとも偉大な先達ということができるだろう。

     ここで私たちが目指したいものは、visual philosophy としてモンタージュをとらえていくということである。したがってそれは、単なる映像制作の技術的な方法論としてのモンタージュを見ることではない。むしろ、モンタージュというテーゼが、単なる映像表現の問題を超えて開いていく、社会や文化全体への問いの広がり、深みを見て取ることが、今回のテーマである。


    エイゼンシュテイン





    B - アトラクションのモンタージュ:すべては葛藤・衝突である

     まず、一般的に言われるモンタージュとは何だろうか。

     「(1)単にフィルムの編集を指す。(2)美学的、思想的、イデオロギー的意味合いを強めたフィルムの結合。エイゼンシュテインをはじめ、1920年代のソヴィエトで盛んに議論された。(3)”ダイナミック・カッティング”のこと。高度に様式化された編集の型。しばしば短期間に多くの情報を伝えるために用いられる」(J・モナコ『映画の教科書』)

    つまり、もっとも一般的な(1)や(3)の捉え方では、単に映像を編集段階で組み合わせて、(多くの場合物語)映画を作り出すための技術を指すに過ぎない。エイゼンシュテインは(2)にあるように、単に表層的な意味でモンタージュを考えることはなかった。私たちはここで(2)について考えるわけだが、エイゼンシュテインがどのようにモンタージュという言葉に深みと広がりを与えていたかを、見ることにしよう。

     彼はもっとも初期に書かれた論考の中で、モンタージュの本質について「アトラクションのモンタージュ」という考えを示している。

     「アトラクションとは、演劇のすべての攻撃的要素のことである。つまり感覚的・心理的作用を観客に与える演劇のすべての要素のことで、それらは情緒的ショックに向けて、経験的に調整され、数学的に計算される。そうすることで、知覚する側にはその総計を通じて、提示されたものの思想的側面、効果としてのイデオロギー的な帰結を感得することができるようになる」(「アトラクションのモンタージュ」(1923年)、『セルゲイ・エイゼンシュテイン全集6 』p.14)

     これは、エイゼンシュテイン自身の演出による演劇のために書かれた論文からの文章である。すでに彼の映像に対する感覚的な把握の深さを示しており、また演劇や映画にとどまらないその問題提起の射程の広さを知ることができる。つまりここでは、感覚的・心理的な作用を観客に与えるものが「アトラクション」と呼ばれ、さらにはその構成が結果として「思想」を観客の内面に生む、とされている。それをエイゼンシュテインは「攻撃的」と呼んでいるが、それについて彼はさらに、次のように発展させていく。

     「モンタージュ、その胚種であるワン・ショットの画面は、何によって特徴づけられるだろうか?衝突によって。二つの独立する断片の葛藤によって。二つの与えられたものの衝突から思想が発生する・・・ワンショットの画面内における葛藤は、潜在的なモンタージュであって、緊張が増大すると、その結果として長方形の細胞を打ち砕き、その葛藤がモンタージュ断片を相互にモンタージュする衝動となって噴出する」(「ワン・ショットの画面の外で」(1929年)『全集』p.69-70」)

     
    つまり、「アトラクション」と呼ばれた映像の各要素は、そのすべてが多様な感覚的・心理的な力とベクトルを持っており、それらが同一画面上でもぶつかり合い、また映像の時間的な流れや構成の中でもぶつかり合っていく。すべてはぶつかり合い=葛藤・衝突なのであり、それが表面には現れていない「思想」を生み出すのである。エイゼンシュテインはこのように、映画のすべての事象を、モンタージュ=葛藤という視点からとらえていく。



    C - オーヴァートーン・モンタージュ:映像を感じる


     モンタージュというテーゼの問題提起は、エイゼンシュテインにあっては映画にとどまらない。

     「芸術は常に葛藤である。(1)芸術の社会的使命によって、(2)芸術の性質によって、(3)芸術の方法論によって。
     (1)芸術の社会的使命によってとは、存在の矛盾を明らかにすることが、芸術の仕事だからである。それは観客の意識内部に矛盾を喚起して、公平な見解を形作ること、相対立する情熱のダイナミックな衝突から、正確な知的概念を創出することである。
     (2)芸術の性質によってとは、芸術の性質が自然的存在と創造的傾向との葛藤だからである。それは有機的な慣性と目的意識的な創意との葛藤である。自然と産業の交差点に芸術が立っている。」(「映画形式への弁証法的アプローチ」(1929年)『全集』p.112)

     (3)の芸術の方法論的な側面については、もちろんそれがエイゼンシュテインにおいて主題とされているものである。ここでそれを詳しく取り上げるわけにはいかないが、「映画形式への弁証法的アプローチ」や「映画における四次元」(1929年)といった論考の中では、モンタージュの概念によって、映画の視覚・聴覚的なあらゆる要素の関係の現れ方が、総合的に考察されていく。その中でモンタージュはさまざまなヴァリエーションをともなって示され、拡張され、発展していく。

     「部分的なドミナント(基調音)によるオーソドックスなモンタージュと違い、『全線―古きものと新しきもの』は、まったく別の形でモンタージュされている。ドミナントが独裁的な力をふるう「貴族主義」の代わりに、全刺激が複合体として、総合計において考えられる「民主的」な平等の方法が登場した・・・こういう風にして達成された総合計は、任意に葛藤的な結合を見せ、相互に対置されることもできる」(「映画における四次元」p.93-94)

     エイゼンシュテインはこのようなモンタージュを、「オーヴァートーン(倍音)・モンタージュ」と呼ぶ。それは映像の視聴覚を生理的に結合し、「映像を感じる」という総合的な次元へと導く。

     「一画面が視覚であり、音調が聴覚だとすれば、視覚的なオーヴァートーンも、聴覚的なオーヴァートーンも、総合計的な生理感覚である。その二つのオーヴァートーンのために、新しい同じ簡潔な表現『感じる』が登場する」(前掲論文 p.98)



    D - 知的映画:映像による思想/思想による映像

     やがてエイゼンシュテインは、そのモンタージュの思想をさらに、もっとも大胆で、もっともラディカルな考え方、方法論へと高めていく。そのテーゼはまた、非常に謎めいていて、多くの誤解や批判にさらされてきたものである。

     「私たちの時代における芸術の前進運動は、『論理の言葉』と『イメージの言葉』という原始的なアンチテーゼの間に立つ、万里の長城を吹き飛ばさなければならない。来るべき芸術の時代は・・・科学と芸術の両者を、質的に統一された新しい見解に導き入れる。・・・科学に官能性を復活させること。知的過程に燃焼と情熱を復活させること。抽象的な反映過程を実際的な行動の熱情に投げ込むこと。それが挑戦である。それがいま私たちが踏み込みつつある芸術の時代に、私たちが要求するものである。こんなことを要求しても多すぎることのない芸術はどれだろうか?全体として、また唯一、映画、すなわち知的映画だけである。情緒的な映画、記録的な映画、そして絶対映画の総合としての知的映画。知的映画だけが、『論理の言葉』と『イメージの言葉』との間にある不調和を解決することができる。」(「展望」(1929)『全集』p.57-58)

     「映画は、思考過程を具体的に呼び起こすことのできる、ただ一つの、同時にダイナミックな芸術である・・・思考過程そのものは、もともと運動である。・・・観衆の知性に働きかけることは、映画によって初めて成し遂げられるものである。私たちは、これまで、思想と感情の間に成立する―純粋の哲学的思索と情緒の間に成立する―陰鬱な二元論に、悩まされ続けてきている・・・この二つの偉大な総合を作ることのできるものは、―すなわち知性を、その現実の源泉であるイメージと情緒とに還元することのできるのは―ただ映画だけである」(「知的映画」(1929年)、『映画の弁証法』)

     こうして、芸術と思想を統合し、それを大衆に解放するものとして、モンタージュは一つの究極の姿を「知的映画」として、(理論上では)見出すことになった。しかしそれは、「すべては葛藤である」とするこの天才の人生に相応しい、劇的な葛藤の頂点となって現実化することになった。なぜならこの知的映画(その映画は「マルクスの資本論」と名付けられていた)は、結局企画のみで実現されることなく、エイゼンシュテイン自身が後に知的映画のテーゼが行き過ぎであったことを認めるに至ったからである。

     そしてそれはエイゼンシュテイン自身の人生にとっても大きな転機であった。なぜならそれは、まさにスターリンの政策によってソヴィエトの芸術が抑圧・陳腐化されていく時期であったからである。その後、芸術の前衛や実験は徹底して潰され、芸術は「社会主義リアリズム」へと一元化され、映画は大衆に受けの良いメロドラマ的なプロパガンダに堕していく。エイゼンシュテイン自身もまた、形式主義として批判され、時代を生き残るために自身の思想・方法論を放棄して、転向せざるを得なくなる。そしてこの後、エイゼンシュテインをめぐる状況はずっと困難なものとなり、ほとんど作品を完成させることもできなくなってゆくのである。

     確かに、以下のような知的映画についての言説は、もっとも論議を呼ぶところだろう。

     「映画芸術は、具体的な概念にまとめられた抽象的単語を操作するだろう。新しい段階は概念の旗印のもとに―スローガンの旗印のもとに歩き始めるだろう。・・・スローガンを直接映画的に伝達する芸術となるだろう。慣れた言葉で思想を伝達するのと同じように、混じりけのない直接の伝達へ。素材としてのスローガンの時代に代わって、スローガンが直接素材化する時代へ」(「私たちの『十月』―劇と非劇のかなたに」『全集』p.47-48)

     もちろんこの「概念を直接イメージ化する」という考えは、あまりに純朴に理想主義的に見えるし、ある種原理主義的な危険な響きさえも感じられるだろう。確かに表面的に読む限りそれは否定できない。

     だがそれは、本当にただの「行き過ぎ」た「急進主義」の誤りを表しているだけなのだろうか?それとも、すべてを政治のスローガンにしてしまう、「共産主義」に汚染された危険な考えなのだろうか?あるいは、エイゼンシュテインはやはりどこまでも「芸術家」なのであり、そのテキストは理論的な見かけをとってはいても粗雑なものであり、それはあくまで熱に浮かされた芸術家のパフォーマンスとして「大目に見る」べきなのだろうか?

     いや、そうではないのではないだろうか。むしろ私たちは、その「知的映画」の急進性を、「事実」として硬直的に読むのではなく、それが指し示す「可能性」を見ることによって、その問いを真摯に受けとめることが必要なのではないだろうか。すなわち、エイゼンシュテインが言ったように、そして実践的にも目指したように、芸術(映像)が思想であり、思想がまた芸術(映像)であるのなら、エイゼンシュテインの映画もまた思想であり、彼の思想もまた芸術(映像)なのである。

     このような視野に立つならば、彼の映画によって、私たちの内面に爆発的に喚起される感情・心理的なものは、それ自体が思想としてとらえられるべきだろう。それこそが、映像を思想的な経験として見る、ということだろう。またひるがえって、エイゼンシュテインの言葉を読むとき、まるで留めきれない奔流のように溢れ出す理念が、私たちの思想とダイナミックな葛藤を起こすのが感じられないだろうか。そのとき私たちは、彼の思想(テキスト)によって、何かイメージや感覚と呼ぶべきものが湧き上がるのを感じないだろうか。そしてそれこそは、モンタージュの実践として、思想を映像的な経験として読む、ということに他ならないのではないだろうか。



    参考上映:『戦艦ポチョムキン』セルゲイ・エイゼンシュテイン(映画、ソ連、1925年)




    『全線―古きものと新しきもの』セルゲイ・エイゼンシュテイン(映画、ソ連、1929年)




    参考文献:ジェイムズ・モナコ『映画の教科書』(岩本、内山、杉山、宮本訳、フィルムアート社、1983年)
    『エイゼンシュテイン全集 第六巻 星のかなたに』(田中ひろし他訳、キネマ旬報社、1980年)
    セルゲイ・エイゼンシュテイン『映画の弁証法』(佐々木能理男訳・編、角川文庫、1953年)
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