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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
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レッスン 3 「メディアはメッセージである」
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    06.02.2009 講義レジュメ
    レッスン 3

    「メディアはメッセージである」




    A - この一見浅薄な、だが悪魔的なテーゼ

    B - メディア社会の反環境としての芸術

    C - マクルーハンを批判的に読むために




    A - この一見浅薄な、だが悪魔的なテーゼ


    私たちは前二回、現代における映像のあり方をとらえるための、基本的な視野をひらくために、二つのテーマを取り上げて考えることをおこなった。一つ目は、映像が事実と言語の中間に位置し、トラウマ性と言語的な意味付けの両極の間で揺れながら、映像それ自体の力をメディアとして持つのではないかということを考えた。二つ目は、映像の技術的・社会的な特徴についての視点から、メディアの時代の映像が大衆社会と密につながっており、アクチュアリティというあり方を持つということを見た。

    今回は、今日の映像を特徴づけている「メディア」性というものについて考えるきっかけを持つことにしよう。そのために、メディア論のもっとも基本的な出発点ともなった、マーシャル・マクルーハンのテーゼ、「メディアはメッセージである」をめぐって考えてゆくことにしたい。

    「メディアはメッセージである」。このテーゼは、不思議である。なぜなら、それは「形式は内容である」とか「外部は内部である」などと言っているようにも聞こえるからだ。また、それは思わず不注意にもらされたかのような浅薄な見かけも手伝って、さまざまに誤解され、牽強付会され、毀誉褒貶にさらされてきた。だがいずれにせよ、この言葉がビッグ・バンとなって、いわば「マクルーハン・ショック」が起こり、「メディア論」の歴史が明確に始まったのである。それでは、この「苛立たしいまでに痴呆的」(エンツェンスベルガー)とも評されるテーゼから、私たちは何を学ぶことができるのだろうか?それにしても、このクラインの壷を思わせる言葉には、何か不気味な、悪魔的な響きがあるのではないだろうか?

    「いまここで考察しているのは、(メディアが)既存のプロセスを拡充したり加速したりするときの、デザインあるいはパターンが、心理的および社会的にどのような結果を生むか、ということだ。なぜなら、いかなるメディア(つまり技術)の場合でも、その「メッセージ」は、それが人間の世界に導入するスケール、ペース、パターンの変化に他ならないからである。」(p.8)

    このテーゼが意味しているのは、単に「メディアの内容だけでなく形式が持つ、社会的・心理的な環境への効果についても注意を払うべきだ」という程度のことに過ぎないのだろうか。それを少しばかり奇をてらって表現してみただけのことなのだろうか。

    いや、このテーゼは実はもっと根本的な問題提議を含んでいるのではないだろうか。それは電子メディアの時代において、メディアの内容以上に、メディアの技術的・社会的側面そのものこそが、圧倒的に世界を作り変え、人間の内面をも作り変えていくということである。つまり、たとえ「内容」が旧来と同じであっても、新しいメディアはまったく新しい結果をこの世界にもたらすのである。このことを、映画とテレビの例について、マクルーハンは次のように述べている。

    「『メディアはメッセージである』というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。いま、テレビがわれわれを取り巻きながら知覚されていないのは、いっさいの環境がそうであるのと同じである。われわれはその「内容」すなわち古い環境にしか気付いていない。」(序文 p.3)

    つまり、メディアの「内容」に相変わらずとらわれている見方は、「新しい環境」の力を見ていない。それは、自分がメディアの影響から逃れた客観的なところにいるとうぬぼれている。だが実はその見方自体がすでに、自分を取り巻く「新しい環境」を作り出しつつメディアの、その「結果」でしかない、ということに気付いていないのである。そしてその見方による意見の表明もまた、どこまでもメディア的な環境によって条件づけられ、意味付けられているのである。マクルーハンはこのような近視眼的な見方をくり返し批判している。

    「すべてのメディアに対する従来の反応は、重要なのは用い方だという反応であるが、それは麻痺を起こした技術馬鹿の陶酔状態である。」(p.18)

    そうすると、次にこのテーゼの恐るべき側面が浮かび上がってくるのではないだろうか。つまり、現代におけるあらゆる思考や見解、行動などが、メディアの結果であるということになるのである。そしてその中には当然、このテーゼを思考するマクルーハン自身もまた含まれるのである。

    こうして、世界はメディアによってすっぽりと覆われ、統合され、全体的に支配されたものとして現れることになる。世界はその全体がメディアによって生み出されたものであり、どんなものもその内部から逃れることはできない。外部はすなわち内部なのである。つまり外部はどこにもない。そしてメディアだけが唯一絶対、万能の神のように、世界を自分自身の原理にしたがって生み出し、作り変え続けてゆく・・・。

    「電気の時代には、われわれの中枢神経組織が技術的に拡張して、人類全体を自身の内に巻き込み、人類全体を自身の内に同化するにまでなっている・・・現代は不安の時代である。電気の内爆発(implosion)のために、いかなる「視点」とも無関係に関与と参与を強いられるからだ。視点というものが持つ部分的で特徴的な性格が、どんなに高貴なものであろうとも、それは電気の時代に役をなさない。」(p. 4-5)

    ここにはベンヤミンが「大衆時代のアクチュアリティ」として考察したものと同じ視点が現れているとも言えるだろう。ただし、ある種の悪魔的な響きをともなっているが・・・。



    B - メディア社会の反環境としての芸術


    では、このようにメディア社会が、すべてのものがメディアによって支配された、その外部を持たない世界として出現するならば、私たちはいかにして、その全体についての視野を得ることができるのだろうか。それとも私たちは世界と批判的に関わろうとすることをあきらめて、ただ神のごときメディア自身の原理によって自己発展する世界に内側から盲従していく他にはないのだろうか?

    ここでマクルーハンは、芸術という方法論を持ち出すのである。

    「技術の効果は意見あるいは観念の水準で生ずるのではなく、知覚の比率ないし図柄を着実に否応なく変えてしまうのだ。真剣な芸術家だけが、技術に遭遇しても無事でいられる唯一の人間である。そのような芸術家が、感覚知覚の変化を意識することにかけて熟達した人間であるからに他ならない。」(p.19)

    「われわれの増殖して止まない技術が次々と新しい環境全体を生み出してくるにつれ、芸術こそが環境そのものを知覚する手段を提供してくれる「反環境」あるいは「対立環境」であることを、人間は自覚するようになった。」(序文 p.4)

    ここで言われる芸術が、従来のジャンルとしての「芸術」ではないことに注意すべきである。そのようなものは単にメディアの「内容」であるにすぎないだろう。そうではなく、ここではベンヤミンの場合と同じく、社会を新しく発見するという本質的な意味から考えられた、「新しい芸術」が提案され、よび求められているのである。それは、世界を覆い、支配するメディアの運動そのものと、その内部から批判的に向かい合い、それを認識するための試みをやめない、実験的な活動のことである。そのような芸術が、「反環境」や「対立環境」と呼ばれ、環境の内部にありながら、同時にそれを相対化する視点を与えることができるものとして言われているのである。



    C - マクルーハンを批判的に読むために

    ところで、マクルーハンの思考には、特にその政治的な見通しにおいて、ある楽観主義的な見かけがあり、それが都合良く表層的に理解される原因となってきたことは否めない。彼の名は、しばしば「IT革命」や「メディア・アート」といった、メディア=技術=産業を礼賛するような政治的風潮と結びついてきた(現在でもそうである)。

    「めまぐるしく変わる技術自体が・・・いまや芸術の機能を演じ始める。・・・(このような)芸術は、・・・エリートのための特権的な滋養という役割ではなく、人間に欠くことのできない知覚の訓練という機能を帯びる。」(序文 p.4-6)

    「オートメーション(情報化、と言いかえても良いだろう)は・・・機会時代の機械的、専門分化的労役から人間を解放する。・・・われわれは突如として自由という脅威にさらされ、社会において自己雇用をおこない、想像力によってそこに参加していく内的能力に重い負担を課せられることになる。これは、社会の中で芸術家の役割を果たすように人々に呼びかける運命の声といっていいだろう。」(p.375)

    つまり、技術の新しさがそのまま芸術となり、技術=芸術はおのずから民主主義を実現させ、それは万人のものとなる・・・。このようなストーリーは、インターネット環境など現代のメディア情報化社会の状況と、一応対応しているように見えるし、そのように制度によって喧伝されてもきたと言えるだろう。

    確かにマクルーハンの「予言」は実現したのかもしれない。ただし、その批判的な側面を捨て去った上で。そしておそらくはマクルーハン自身が、その思考の批判性になかば無意識であったのかもしれない。それが彼の論考を、その悪魔的な響きと楽観主義的な見かけへと引き裂いているのではないだろうか。

    だが、いまの私たちに必要なのは、その楽観主義を現状肯定のために利用することではなく、そこに秘められた不気味な響き、常にメディア社会へと批判的なまなざしを送り続けているマクルーハンの「無意識の声」に、耳を傾けることではないだろうか。世の中にあふれかえる、「マクルーハン=メディア社会礼賛」に流されることなく・・・。

    参考上映:『虚構の砦』瀧健太郎(ビデオ、日本、2004年)




    参考文献:
    マーシャル・マクルーハン『メディア論ー人間拡張の諸相』(栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年 )
    ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー『メディア論のための積木箱』(中野孝次、大久保健治訳、河出書房新社、1975年)
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