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Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
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レッスン 2 「メディア映像のアクチュアリティ」
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    05.12.2009 講義レジュメ
    レッスン 2

    「メディア映像のアクチュアリティ」




    A - 複製技術時代の芸術(1)―アウラの消滅

    B - 複製技術時代の芸術(2)―近さと反復

    C - 複製技術時代の芸術(3)―礼拝的価値から展示的価値へ

    D - 複製技術時代の芸術(4)―大衆の参加、自己表現、無意識、散漫





    A - 複製技術時代の芸術(1)―アウラの消滅


     今回は、映像メディアのある技術的な特徴からうまれる、いくつかの基本的な働きについて考えていくことにしよう。その特徴とは、「複製の技術」ということである。そのために、メディアについての古典的な文献である、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』(1936)を、導きの糸としたい。

     複製技術とは何か?「複製技術の時代」は、19世紀初頭の写真の発明とともに始まる。複製技術時代の映像である写真と映画は、それ以前の複製(印刷、版画、鋳造など)とは一線を画す。また写真・映画と、ヴィデオ以降の「情報技術」的な映像の間には、大きな段階の差があるが、情報技術的な映像もまた、複製技術としての映像の特徴をいろいろな面で引き継いでいる。したがって、その違いは後に見ることとして、ここでは情報的な映像の土台として、複製技術的な映像について、まず見ていくことにしよう。

     「写真技術によって、人間の手が形象の複製プロセスの中でこれまで占めていた一番重要な芸術的役割は、今度は対物レンズに向けられる眼にふりあてられることになった。」(p.11)

     まずベンヤミンはここで、何が「芸術」で、何が「芸術」ではないのか、ということはまったく問題にしていない。つまり彼の「芸術」は、「感性の対象である人工物」を一般的に指していると言っていいだろう。ここで扱われる映像の「芸術」は、ジャンルとしては「エンターテインメント」も「ニュース」も「アート」も「記録映像」も「科学的な映像」も、すべて含んだものだと考えることができる。あるいは、ベンヤミンはここで映像について、従来の「芸術」というジャンルの定義によらない、まったく新しい見方による「芸術」のあり方を考えることが目的だったと言えるだろう。

     「『本物』としての権威も、相手が技術的複製となると、そうはいかなくなってしまう。・・・芸術作品の『いま』『ここ』にしかないという性格は、ここで完全に骨抜きにされてしまう。・・・複製技術の進んだ時代の中で、滅びゆくものは作品のアウラである、と言えよう。・・・複製技術は、これまでの一回限りの作品の代わりに、同一の作品を大量に出現させ、こうして作られた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手の方に近づけることによって、一種のアクチュアリティを生み出している。」(p.13-14)

     アウラ(Aura)とは何か?ベンヤミンは「どんなに近距離にあっても、近づくことのできないユニークな現象」(p.16)と言っている。それはあるものの「いま・ここ」性である。つまり、それが一回限りでかけがえのないものであるということによる近寄り難い魅力、のことである。

     写真や映画は、あらゆるイメージを不確実な人間の手を介さずに、直接機械的・光学的に複製する。それは映画がいろんな映画館でかけられるように、さまざまな状況に柔軟に適応して、観客に近づいてくる。またそれは、何度でもまったく同様に反復することができる。こうして写真や映画は、事物の「いま・ここ」性、アウラを失わせる。複製技術の映像は、ユニークな事物が持つのとはまったく異なるアクチュアリティを持つことになる。では、そのようなアクチュアリティは、どのようにして働くのか?



    B - 複製技術時代の芸術(2)―近さと反復

     「アウラの消滅は、現今の社会生活において大衆の役割が増大しつつあることと切り離し得ない二つの事情に基づいている。すなわち一方では、事物を空間的にも人間的にも近くへと引き寄せようとする現代の大衆の切実な欲望があり、他方また、大衆がすべて既存の物の複製を受け入れることによって、その一回限りの性格を克服する傾向が存在する。」(p.16)

     「事物をおおっているヴェールを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴であり、現代の世界では『平等に対する感覚』が非常に発達している・・・リアリティの照準を大衆に合わせ、逆にまた大衆をリアリティの照準に合わせることが、思考面でも、視覚面でも、無限の射程距離を持つ動きとなっている。」(p.17)

     つまりベンヤミンによれば、「近さ」と「反復」が、複製技術的な芸術が持つアクチュアリティの特徴である。それは従来の特権を崩そうとする大衆の平等への欲求の表れである。このような大衆の役割が増大した社会的な状況が、メディア・映像についての感覚・感性を変化をさせている。

     映像(のリアリティ)は大衆社会に密接に関係する。逆に言えば、映像の感覚や方法、美学などについて考えるとき、大衆社会という現象を離れては考えることができない。そしてそのような映像メディアの特徴は、複製技術という技術によって生み出されている。このように映像をめぐって、<アウラを失わせる複製技術>、<平等へと向かう大衆社会>、そして<近さや反復の欲求という内面的感覚>、の三つの要素が緊密に繋がっているのである。



    C - 複製技術時代の芸術(3)―礼拝的価値から展示的価値へ

     「芸術作品に接する場合、いろんなアクセントの置き方があるが、その中で二つの特徴が際立っている。一つは、重点を芸術作品の礼拝的価値におく態度であり、もう一つは、重点を作品の展示的価値におく態度である。」(p.19)

     「今日の芸術作品も、その絶対的なアクセントを展示的価値におくことによって、これまでとは異なるさまざまな機能を持つようになった。」(p.20)

     複製技術は、事物とくに芸術作品を、儀式や礼拝と関係するような、アウラに基づいた宗教的な価値、いわゆる「ありがたさ」から引きずり出してしまう。このような転換は、絵画や彫刻でも同様のことが起こっていた。つまりかつて貴族やブルジョワの屋敷や教会などで個人的に私有され、鑑賞されていた作品は、美術館などの公共空間で展示され、不特定多数の人々が平等に近づくことができるようになったのである。このような礼拝から展示への移行は、大衆の平等へ向かう欲求と活動、つまり「民主主義」の運動と軌を一にしている。したがって、それは政治的な側面を大きく持っているのである。

    参考上映:『カメラを持った男』ジガ・ヴェルトフ(映画、ソ連、1929年)






    D - 複製技術時代の芸術(4)―大衆の参加、自己表現、無意識、散漫

     「映画もスポーツとまったく同様、その技術が展示される演技を、誰でもなかば専門家として見物することができる。」(p.30)

     「映画館の中では、観客の批判的態度と享受的態度とは、完全に一つに融け合っている。」(p.34)

     「映画に出ることは、今日の人間の誰でも可能な要求である。」(p.30)

     「映画の特徴は、人間がカメラに向かって自己を表現する仕方に見られるだけでなく、カメラの力を借りて周囲の世界を表現する仕方にも見られる。・・・映画もまた、視覚的記号世界、そして現在ではさらに聴覚的記号世界の全域にわたって、知覚の深化をもたらしている。・・・カメラに向かって語りかける自然は、肉眼に向かって語りかける自然とは別のものだ。・・・われわれは、精神分析によってはじめて無意識的な衝動の世界を知ることができるように、映画によってはじめて無意識的な視覚の世界を知ることになるのである。」(p.36-38)

     「芸術作品に対する受け手の側の、これまでのさまざまな態度が、現在新たに生まれ変わる母胎は、大衆である。きわめて膨大な大衆の参加は、参加のあり方そのものを変えてしまった。・・・芸術がそのもっとも困難かつ重大な課題に立ち向かうのは、芸術が大衆を動員できる場所においてである。目下のところ、その場所は映画の中である。芸術作品に対する散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化の徴候として、芸術のあらゆる分野において、いよいよ顕著に認められるようになったが、ほかならぬ映画こそ、その本来の実験機関なのである。」(p.42-44)

     ベンヤミンはこのように、映像メディアが大衆の主体的な参加によって、人々の自己表現や批判の相互作用をもたらし、そして世界をいっそう深く見るための方法になると信じていた。そして大衆の「散漫」な映像メディアへの感性こが、芸術を鍛え上げ、展示的価値に基づいた新しい芸術の感性を作り出すものだと考えていた。

     私たちは現在、携帯電話のカメラで誰もが自己表現し、インターネットで誰もが社会批判に参加している。電子の情報ネットワークは、映画館など比較にならないほど、大衆を動員している。情報の時代、視覚や聴覚の記号は生活の中のいたるところ、大量に氾濫している。私たちはますます散漫に映像を享受し、それに反応している。空間的にも時間的にも、私たちの知覚はメディアによって変容し、拡張している。その意味では、まるでベンヤミンが考えていた「大衆の参加する社会」や「展示的価値の芸術」を、実現してしまったかのようにも見える。

     だがそれによって、私たちは「世界を深く見る」ことになったのだろうか?私たちのメディア社会の姿が、ベンヤミンが言う「知覚の深化」の実現なのだろうか?

     この書物は最後、有名な文章で終わる。「人間の自己疎外はその極点に達し、人間自身の破滅を最高級の美的享楽として味わうまでになったのである。これがファシズムの広める政治の耽美主義の実態である。共産主義は、これに対して、芸術の政治主義をもってこたえるであろう。」(p.46)

     ベンヤミンは、ファシズムと戦争の脅威を前にして、この論考を書いた。そしてその「映像メディアによる大衆の解放」という理念は、「共産主義―マルクス主義」の希望と一緒になって目指されていたのである。

     そして一方、いまだ資本主義は継続し、いわゆる「共産主義国家」は崩壊し、今では資本主義こそが唯一の「民主主義」であるかのように言われている。では、資本主義に反対して、共産主義を民主主義の理想と見ていたベンヤミンは、まったく間違っていたのだろうか?そしてベンヤミンが夢見た「映像メディアによる大衆の解放」は、資本主義の中でめでたく達成されたのだろうか?

     むしろ資本主義が、ベンヤミンが示したような方法を、ベンヤミンとは逆の目的で、つまり「大衆の支配・抑圧」のために利用して、今日にいたるメディア社会ができあがったのではないだろうか?「人間自身の破滅を最高級の美的享楽として味わう」という言葉は、まるで現代のメディアや社会を指しているかのようにも聞こえないだろうか?ベンヤミンの論考の楽観主義的なみかけを超えて、より深くその声を聞くことが必要ではないだろうか?

     「芸術の政治主義」とはどういうことか?それが「知覚の深化」と分ちがたく結びついているならば、ベンヤミンの論考は、その片方(共産主義による大衆の解放)が「間違い」で、もう片方(メディアの発達による知覚の変容)だけを読み取ればよいのだ、として片付けることはできないのではないだろうか?「参加のあり方」について考えたときにはじめて、「知覚の変容=深化」の意味するところも、浮かび上がるのではないだろうか?

     ベンヤミンは、最後近く、次のような一文を残している。
    「ファシズムは、所有関係はそのままにして、大衆を組織しようとする。ファシズムにとっては、大衆にこの意味での表現の機会を与えることは、大いに歓迎すべきことなのだ。それは大衆の権利を認めることでは絶対にない。」(p.44)



    『複製技術時代の芸術』訳書:
    晶文社版(今回の引用はこれによる)「ヴァルター・ベンヤミン著作集2」、高木久雄、高原宏平訳、1970年
    岩波文庫版『ボードレール他五編』(「ベンヤミンの仕事2」)、野村修訳、1994年
    ちくま学芸文庫版『ベンヤミン・コレクション<1>近代の意味 』、浅井健二郎訳、1995年
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