RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

05
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

Visual Philosophy Lesson

河合 政之
東京造形大学 2009年度「映像論」講義 
<< プロローグ 2 「なぜ visual philosophy か?」 | main | レッスン 1 追記 >>
レッスン 1 「言葉を失わせる映像」
0
    04.28.2009 講義レジュメ
    レッスン 1

    「言葉を失わせる映像」



    A - 眼をとらえて離さない映像の「訴え」

    B - トラウマとしての映像

    C - アウシュヴィッツ以後、映像を作ることは野蛮であるか?

    D - 情報時代のトラウマ的映像―私たちは映像のトラウマに慣れたのか?




    A - 眼をとらえて離さない映像の「訴え」

     今回からは具体的に、「映像という哲学」に向けて、実践的に取り組んでいくことにしよう。

     まず、映像と言葉の違い、それらの関係を際立たせるような、ある一つのことについて見ていくことから始めよう。そこから、従来の言葉ではない、映像という新しい「言葉」による、「映像という哲学」の可能性を、開いていくきっかけとしよう。

     初めに、映像を純粋に「見ること」から始めよう。その文脈や、目的や、従来の意味などから離れて、映像と純粋に向き合う。そのとき、映像が持っている、ある「働き」について注目してみたい。

     そのような「働き」を明らかに見るために、今回は、ある特殊な種類の映像をサンプルにして、考えていこう。それは、いわゆる「ショッキング」な映像と言われるものである。

    参考資料:ロバート・キャパ『崩れ落ちる兵士』(写真、1936年)



     たとえば、人が死ぬ瞬間の映像というものがある。あるいは、大きな社会的事実が明らかになった瞬間をとらえた映像がある。また、「決定的瞬間」という、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真に対する考え方がある。その意味では、すべての「実写」の写真や映像は、何らかの「決定的瞬間」をとらえていると言っていいかもしれない。そして、「ショッキング」な映像とは、その「決定的」な特徴がはっきりわかるものである。そのような映像は、私たちに言葉を失わせる。

     そして言葉を失わせる映像は、同時に、私の眼をとらえて離さない。たとえ現実的に眼を背けようとも、私たちはその映像の「訴え」から逃れられない。

     このような映像は、何を「訴え」ているのだろうか?



    B - トラウマとしての映像


     「トラウマとは、まさしく言語活動を中断し、意味作用をせき止めるものである。・・・トラウマ的写真(現場でとらえた火事、海難、災害、非業の死)は、言うべきことの何もない写真である。すなわち、ショッキングな写真は、構造的にいって、無意味である。つまり、いかなる価値、いかなる知識、究極的にはいかなるカテゴリー分けも、意味作用の制度的な過程に力をおよぼすことができない。」
    (ロラン・バルト「写真のメッセージ」p21、沢崎浩平訳、『第三の意味』、みすず書房、1984年)

     「映画の所記(signifié(シニフィエ:意味されるもの))は、他の意味論的体系、つまり言語の圏外では対象化できないのだ。そしてまさに、この二つの体系、視覚体系と言語体系との、はかないと同時に可感的な接触から、トラウマ(精神的外傷)が生まれるのだ。」
    (ロラン・バルト「映画における外傷(トラウマ)的単位」p65-66、同上書)

     「ショッキング」で「無意味」な写真、映像。それはもちろん「言葉として」無意味なのである。では映像は、言葉および事実と、どのような関係にあるのだろうか?

     映像は、事実のように無意味であるが、言葉のように何かを訴える。映像は、事実と言葉の間に位置しているのである。映像は言葉のように記号である。事実と記号の違いは何か?事実は、直接に作用するが、記号のように訴える(伝達する)ことはない。記号は、事実と違って、何かを代理して語るのである。映像は、記号として、何かを代理して語る。だが事実のように、直接的で、豊かである。
     
     映像は、無意味であればこそ、豊かであり、強く訴える。それが訴えるものは何か?それを言葉にできないために、それは言葉による意味付けを強く、そしてしつこく要求する。そうやって私たちは、安心したいのである。映像は、言葉で意味付けられることによって、意味を持ち、安定する。

     このように言葉を付けて、意味を持った映像は、もとのトラウマ性が強ければ強いほど、訴える力を持っている。したがって、その映像を、どのような文脈で意味付けするか、つまり、どのような意味で解釈するか(させるか)ということが問題となる。そしてその言葉による意味付けをめぐって、映像の意味の「奪い合い」が生じる。こうして、映像をめぐる、政治的な争いがうまれる。



    C - アウシュヴィッツ以後、映像を作ることは野蛮であるか?


    参考上映:『夜と霧』アラン・レネ (映画、フランス、1955年)



     「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。このテオドール・W・アドルノの言葉(1949年)は、事実から言葉(芸術=思想)への問いかけを、代表したものだろう。圧倒的な事実を前に、言葉は敗北したように見える。

     しかし、その問いに答える、新しい「言葉」が、新しい「詩」が生まれなければならないのではないか。そして映像は、事実と言葉の間に位置する、新しい芸術=哲学として、この問いに答えようと試みなければならないのではないか。



    D - 情報時代のトラウマ的映像―私たちは映像のトラウマに慣れたのか?


     情報とメディアの時代、トラウマ的映像は、私たちの周りに満ちている。残虐な映像は、フィクションと事実を問わず、インターネットやTV、ゲームなどに氾濫している。日常的に目にするトラウマ的映像の洪水の中では、そのリアリティが薄れ、それがフィクションか事実かの差異もなくなってしまっているようにも思える。

     一方、イラク戦争や 9.11 が私たちに明らかにしたことは、その政治的な争いが(今までの戦争と同じように)、とりわけトラウマ的な映像の意味の支配権をめぐってのことだったということだ。たとえば、ミサイルによるバクダッドの攻撃を、TVゲームのようにハイテクで安全な「プロジェクト」として演出しようとしたアメリカ、それに対して、爆撃が民間人をも犠牲にする明らかな殺戮の行為であることを示そうとするイラク。あるいは、WTCに飛行機が飛び込み、ビルが崩落する映像は、正義と民主主義の国を攻撃する、狂信的なイスラム教徒の悪意を表すのか、それともアメリカと資本主義による世界支配の暴力が、これほどまでに憎悪されているということを表すのか。



     方や私たちは、映像のトラウマ性に慣れ、そのリアリティを感じる感性を失ってしまいそうになっている。方や私たちは、映像が歴然たる政治的支配に利用されていることに気付いていながら、そのあまりに大きな情報操作に対して、まるで無力であるように思ってしまう。

     だがそのような問題に対して、私たちは、諦めるわけにはいかないのではないか?新しい映像の使い方を、作り出していかなければならないのではないか?従来の映像のリアリティがなくなってしまったのなら、新しい映像のリアリティを見つけられないだろうか?映像の意味をめぐる奪い合い以外に、第三の道はないのだろうか?政治的な対立に映像の力を利用するのではなく、映像を使ってそれを乗り越える道はないのか?つまり、映像そのものを使って、私たちに本質的なことを気付かせるという方法が。それは、映像自体の訴える力を発揮させることで、映像そのもので考えるための方法である。

    参考上映:『SHOT』西山 修平(ヴィデオ、日本、2007年)





    参考文献、映像資料:
    ロラン・バルト『第三の意味』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年
    Henri Cartier-Bresson, "The Decisive Moment", Simon and Schuster, 1952
    世界の映画作家5「ミケランジェロ・アントニオーニ、アラン・レネ」、キネマ旬報社、1970年(『夜と霧』のシナリオ和訳あり)
    テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」『プリズメン』所収、渡辺祐邦訳、ちくま学芸文庫、1996年
    DVD: 『Vidiot in Contemplation』、ビデオアートセンター東京、2007年、発売元:アムキー
    | resume | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









    http://vplesson.ref-lab.com/trackback/840018